「氷川きよし 四国ツアー 最終ステージの開幕です!」
丸亀でのコンサート開催ははじめてのこと。
夜の部の開幕直前、司会の西寄ひがしさんがそうナレーションされると、会場にはいっそう大きな拍手がおこりました。
昼夜とも熱唱につぐ熱唱。
なんと、なんと、ああ~、もう言葉が出ません...。
だって、だって、きよしさんが。地元ということで、「霧の中の愛子」を1コーラス、バラード調で歌ってくださったのですもの。
結びの、
“♪恋の街~“が、優しく情熱的に響きわたり、きよしさんが歌い終えると、昼夜とも大喝采。
リリース時から時を経て、ちょっぴり大人になった”霧の中の愛子”に、わたしは嬉しくて涙がでてきたのです。
ああ、わたし、四国にきているんだなあ...。
と、なぜだか日本地図が頭にうかんだりもしたのです(笑)。
丸亀駅からまずはホテルにむかったのですが、途中、アゲハチョウが舞っているのを何度も目にして、自然に恵まれた土地なのだなあと感じておりました。
仕事をかかえて出かけてきて、また戻ったら仕事なので、楽しかったコンサートのトークは、少し時間をおいて、他のご報告よりあとになってしまうかもしれませんが、どうしてもその雰囲気とともにお知らせしたいので、書かせてくださいね。
きよしさんの”愛しています”発言や、投げキッスの乱発射(?)となった、あまりにも素敵でかわいらしいおばあちゃまとのやりとりや、HKピュアリバーのみなさまの年齢を聴取しながら(一同男性陣にだけです・笑)の、きよしさんによるメンバー紹介などなど...。
ね、こうして書き出してみただけでもお伝えしたいことがありすぎて...、なのでお時間いただいてあらためて描かせてくださいませ。
この記事では出待ちでのことを書いておこうと思います。
昼夜ともチケットはソールドアウト。
超満員の客席には”氷川きよしコンサート”にはじめてお越しになられた地元の方もちらほら。
でも地元の方にとっても、超プラチナチケットだったことを、出待ちのおり、出逢ったかたたちからうかがいました。
夜の部で、「一剣」を歌い終えると、きよしさんは、20周年にむけての思いを話しだされました。
楽しかったコンサートが終盤をむかえようとしていることを感じた客席から、きよしさんが話し終えるのを待ち切れずに、”きよしコール”がおこったのです。
きよしさんは、一礼されると、コールにはお応えにならずに、お話をつづけられようとして、やめるにやめられない”コール”に、
「すみません、話させてください」
と静かにおっしゃり、話をつづけられたのです。
”きよしコール”は少しずつ小さくなっていって、ぴたりと、”きよしコール”がやむと、
「ありがとうございます」
きよしさんは、話の途中なのに、律儀にお礼をおっしゃったので、場内に笑いがおこりました。
すると、
「話をさせていただきたかったので。お気持ちだけいただいて」
と申し訳なさそうに、でもちょっぴり笑っておっしゃったのです。
”きよしコール”に応えたいけれど、応えたら、言いたいと思った頭にうかんだことが飛んでしまうかもしれない。
そんな葛藤が、きよしさんの心に瞬時にわいたのでしょうね。
「これからも表現者として、いろいろな曲を歌って、みなさまにお届けしていきたいと思っています。
みなさま、今後とも、氷川きよしと、氷川きよしの歌を応援してください」
と、力強くおっしゃったきよしさんに惚れ惚れとしたのです。
この日の、「愛しのテキーロ」や、アカペラでの「霧の中の愛子」の歌唱で、とりわけ高音部を歌われたとき、右手をかかげて空中で音程をとる仕草をされていたので、Zeppでの夏祭りコンサートでの歌唱が想像されて、ドキドキしていたのですが、新たなチャレンジを前に、抱かれた思いや歌手としての自信がおありだったのでしょうか。
アンコールの曲についても、いつも、”よろしかったら最後までおつきあいください”と、帰りの時間のご都合がある方を気づかわれておっしゃいますが、この日はその言葉につづけて、
「聴いてください」
と、きっぱりおっしゃったきよしさんに、わたし、見惚れるばかりでした。
そんなきよしさんの終盤でのやりとりに、客席とほんとうに素敵な関係を築けているからこそなんだなあと感じて、嬉しさがわいてきました。
そして、あたたたか思いで満たされていったのです。
※ひばりさんが来館時に書かれた色紙。
昭和52年2月25日とあります。
終演後、ホテルにもどって、やること満載ですが、きよしさんをお見送りさせていただきたい思いでいっぱいになっていたわたし、せめて車窓のきよしさんに、心のなかで”ありがとう”といわせていただこうと、出待ちをするらしい方たちのあとについていったのです。
会館を離れて、ガソリンスタンドの前をとおったときには、もしかしたらちがう? と不安になりましたが(笑)、そのことをうかがうにも、数十メートル先を急ぎ足で歩いておられるので、追いつかないと聞けません。
でも、さらにその前を急ぎ足で歩いている方の姿がみえてきて、いきついたところには、もうかなりのかたが列をつくっていたのです。
そこは、たしかに会館の裏側といえばそうなのですが、知らなければ、2階建ての旧式のマンション? と思うような建物で、各部屋kの窓にはカーテンがひかれていました。
到着したタイミングでは本来なら列の最後尾のさらに後ろという状況だったのですが、なぜか、そこでミラクルなことがありました。
わたし、おおげさでしょうか(笑)。
係のかたに、”これ以上列を伸ばせないので、前のほうに移動して、そのうしろに並んでください”と誘導されて、前方に並んでいる方たちの後ろに立たせていただくことになりました。
どうも誘導ロープがたりなくて、それ以上列を後ろにのばせなかったためらしいのですが、そのおかげでかなりあとから到着したのに楽屋口にかなり近い場所に加わらせていただけることになったのです。
そんなこと、はじめてでしたので、”丸亀”からの贈り物だったのでしょうか。
なんて(笑)。
なんて(笑)。
待っているときに、小学生の女の子とそのお母様とお話がはずみました。
会館近くにお住まいなのですが、きよしさんのコンサートのことを知らずにいて、昼間、お母様がお仕事で配達をしていて、”入り待ち”の列を目にして、きよしさんをひとめみたいと、夜の部が終わるころ、娘さんをつれていらしたのだそうです。
わたしはちょうどペンライトを3本もっていたので、”よろしければ”と、1本ずつお貸しして、地元のことなどうかがいながら、きよしさんを待ったのです。
コンサートで、きよしさんは丸亀到着時、車で丸亀城付近を一周された様子で、お城の素晴らしさが心に残ったことを話題にされたこと、「みれん心」の全身パネルにも感動された思いを書かれていました。
その際、わらびもちが売られていて、食べてみたかったそうで、”300円”だったことや、コンサートが終わったあとは、もうお店もおわっていて買えないと残念そうだったことを思いだして、その話題を母娘さんにすると、
なんでも、おじさんが屋台のような形態で売っているそうで、もちろん地元では有名ということを教えてくださいました。
※桜田淳子さんの色紙、かわいいですね。
昭和49年5月19日とありました。
楽しく話しているうちに、西寄さんの姿が!
出待ちの列にむかって、お辞儀され、何度も手をふってくださってから楽屋口の前にとまっているバンに乗り込まれました。
それからまた10分ほど?
途中、そのマンション風の建物のカーテンが何度かあいて、その隙間から...。
それって、きよしさん?
マスクをかけていたので、はっきりわかりませんでした(笑)。
でも、”そんなことするの、きよし君くらいじゃない?”
と周囲の方とも勝手ながら満場一致(笑)。
※フランク永井さんの色紙も!
昭和51年11月23日と書かれていますね。
そんな楽しいやりとりのあと、いよいよきよしさんが!
バンに乗り込まれる前に、会館のかたちにていねいにお礼とご挨拶をされている様子がみえました。
白いシャツに、膝までのジーンズをお召しになっていました。
一緒に待っていた親子さんが、そんなきよしさんの様子に、”氷川きよし君って、ていねいなできちんとした人なんですね”と。
そうなんですよね~。
ま、きよしさんにとってはこれが普通なんですけどね~と心のなかで思い、自分のことでもないのに鼻高々。
そして、きよしさんはバンに乗り込む際、バンの前にでてきて、出待ちの列にむかって会釈し、手をふってくださると、そのままバンに乗り込まれました。
他のスタッフの方が乗り込まれ、荷物を積み込んでいる間のバンのなかのきよしさんの様子もチラりとみえて...。
いよいよバンが走り出すと、車窓から、きよしさんの笑顔が。
そして、そのとき、”どうもありがとう”ときよしさんのお声がきこえたのです(嬉)。
たとえ心のなかであっても、きよしさんにお礼をお伝えしたいと思って出待ちの列にならんだはずだったのに...。
きよしさんの笑顔に見惚れて、その瞬間、舞いあがって、お礼を唱えられませんでした。
きよしさんを乗せたバンはゆっくりと走っていたので、わたしはバンにむかって、
”ありがとうございます”
と、両手をぎゅっとにぎってお礼をいわせていただいたのです。
※駆け足での更新でごめんなさい。
明日は、きよしさんが召しあがりたかったとおっしゃっていた、”わらび餅”、取材(?)してまいりますね。