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Channel: 天晴れ! HK伝説 ~氷川きよしさんに出会えた奇跡に感謝!~
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次につながるVol.10に! 浅草木馬亭での西寄ひがしさんのトークライブにいってきました。

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こんばんは。
今日は浅草の木馬亭での西寄ひがしさんのトークライブにいってきました。
今回で10回目(番外編を加えると13回目)ということで、西寄さんは大いなる思いを抱いて臨まれた舞台だったことを第5弾となる゛西寄語り゛を語りおえたあとでおっしゃいました。


イメージ 1
※長良じゅん会長に捧げる真紅のバラが10本になりました。


と、ここで話題が前後しますが、わたしにとって昨日6月7日は忘れられない日でした。

西寄さんのライブのことは、お品書きの画像のあとから書きますね。
以下、次の画像までは私事になりますが、このながれで書かせていただきたかったので、お許しください。

1年前の6月7日。
地元の駅で1本早い電車に乗ろうとして駆け出し思いきっり転倒したのです。
その瞬間に全身にはしった呻くほどの激痛はおさまったので、銀座にある映画会社の試写室で新作を1本観させていただいて、R駅へと移動したのです。
でも駅のホームで電車をおりたところで不調を感じて...。
イスにすわって様子をみていたのですが、痛みがおさまるものではないどころか歩けなくなりそうな状況を自覚して、ホームに常駐されている警備の方になんとかお声をかけて、駅員さんを呼んでいただいたのです。

駅員さんは、
”すぐに救急車を呼ぶこともできますし、様子をみられるのでしたら休んでいただく場所があります。どうされますか?”ときいてくださり、わたしは休ませていただくことにしました。
その駅員さんが内線でどちらかに連絡されると、別の駅員さんがいらして車椅子にわたしを乗せて事務室につれていってくださったのです。
その間も”少し坂になりますが、痛くないですか? 大丈夫ですか?”と声をかけてくださり、駅のなかを移動して事務室につれていっていただきました。
そこに仮眠するベッドがあり、そこで休ませていただいたのですが、その際も、別の駅員さんが”ゆっくり休んでいただいて大丈夫ですから”とおっしゃって、わたしはとても安心したのです。
それで、20分ほど横になっていたのですが、これはこのままおさまるものではないと判断して救急車を呼んでいただいたのでした。
救急隊員の方に運ばれて地上に待機している救急車に運んでいただいたのですが、そこまで付き添ってくださっていた駅員さんもおられて、わたしは、元気になったらお礼に行きたいとこころにきめたのです。
その後、なんどもR駅を訪れてはいたのですが、まだまだ”元気になりました”と胸をはっていえない状況がつづいて、春先に走れるほどによくなったと思ったら3月末にふたたびかなりの不調がありましたので、この日を目標に、前向きな思いでがんばってきたのでした。
正直パーセントの回復ではありません。
でも、ささやかですが用意したお菓子の包みも楽々と持つことができ、その足で仕事先へ向かうことになっていて...。
わたしには1年前のあの日から考えると”夢のような”1年後に思えたのです。

ふだん、利用しても訪れることのない事務室ですから、通路をとおり、ドアをあけて、なんとなく見覚えのある風景にあの日のことが思い出されたのです。
優しい駅員さんに運んでいただいてその部屋に入ったときの痛みの不安を和らぎ、わたしはほんとうにホッとしできたのでした。

そのときは事務室には数名の方しかいなかったのですが、事情をお話ししお礼を申し上げていたら、奥から責任者の方がでていらして、”そんな、お気遣いくださらなくていいんですよ”とおっしゃったのです。
でも、こうしてご挨拶にうかがうことを目標にがんばることができたことをお伝えし、あらためてお礼を申し上げたのです。

また新しい1年の始まり!
おおげさでなくあの日、もし転倒した状況がもう少しちがっていたら、自分はこの世からいなくなっていたかもしれないのだと、あとになって何度も思ったものですから。

前後しますが、そんな思いですごした翌日が、西寄ひがしさんの10回目のトークライブだったのです。
わたしはわたしで新たな一歩を踏み出すその日に、西寄さんもまた未来を見据え未来につながる渾身のトークをきかせていただくことに、素敵な偶然を感じたものですから。
前後して6月7日のことを書かせていただきたいと思いました。


イメージ 2
※祝Vol.10! 新たな1歩の始まりですね。


昼夜、参加させていただいたのですが、大入り満員!
チケットはソールドアウトでしたので、当日券を求める方が早朝から並ばれたということでした。

昼の部はミッキーマウスのTシャツ(白地)にピンクの半そでシャツを羽織られ、パンツはベージュ系のタータンチェック柄、靴は白地に茶色のコンビシューズ(といってよいでしょうか?)でした。
千奈美に夜はネイビー地にミッキーマウスが描かれた、Tシャツにパイナップル柄のアロハシャツにパンツ(ごめんなさい。茶系かグレー地か曖昧に・汗)、ネイビ-のスリッポンでした。
とてもピンクがお似合いで大好評だったのですが、なぜ”ミッキーマウス”なのかは第5弾となった”西寄語り”でその謎がとけたのです。

パンフレットを開くとこの日の”お品書き”が見開きでのっていて、お客様から希望を募ってお題に沿ってお話しされるというスタイルのはずなのですが、昼夜ともそこに至るまでのフリートークであっという間に40分近くが経っておりました。
昼の部ではたくさんのお品書きを用意されていたのに4つしかお話しされていなかったことをスタッフに指摘されたそうで、夜の部ではずいぶん多くお話ししてくださったのです。

イメージ 3
※日々の出会い、驚きの出来事を書きとめ練りあげたお品書きです。


昼の部で、”唄ってコール”がまきおこると、マイクトラブルが(汗)!
木馬亭さんの2階で劇団公演がおこなわれていて、そちらで使用されているマイクと周波数が近いためではないかということでしたが、音声がプツプツ途切れる一幕があったのです。
ところであのピンマイクっですが、1台30万円もする高価なものということを今回はじめてしりました。

そういった技術的なアクシデントだったのですが、そこは西寄さん。
「これは唄うなという長良会長からのメッセージという気がいたします。長良会長は、”表に出る唯一の裏方が司会者だ”とおっしゃっていました」
と、あるエピソードを披露してくださったのです。

それはきよしさんのハワイ公演(2003年9月)でのこと。
長良会長とお食事に同席させていただいていて、その席で唄うことになり、一緒に同席された方の要望で、喜納昌吉さんの「花」を唄われたそうです。
長良会長はじっと聴いてくださっていて、西寄さんはもしかしたら長良会長のお耳にとまるだろうか? という思いもよぎったということでしたが、
会長は、”ぼちぼち唄えてるけど、おまえの歌には金のニオイがしない”とおっしゃったそうで。
わたし、この言葉に感じ入ってしまいました。
名プロデューサーの長良会長ならではの言葉だと思いますが、”金のニオイ”とはすなわちビジネスとして成り立つかどうかということですものね。
西寄さんはそのときから公の場で唄うことを控え、司会者に徹することにされたようです。

長良プロとご縁ができたのは、森進一さんの司会者兼付き人として奮闘されていたころ、山川豊さんの司会者の方が体調を崩され、急きょ西寄さんが司会をされたときのこと。

音響の仕事をしたいと、人事課に手紙を書いて採用され、採用されてからは演歌の担当を希望され、川中美幸さんのツアースタッフとなり、認められてとある方のミキサーを任されることが内定したところで、より歌手の方にかかわる仕事がしたいと森進一さんの付き人に...。
もちろん社会人として筋を通したうえでの転身だったそうですが、ご両親にはいつも事後報告だったそうです。
そんな西寄さんを理解し、見守ってくださったご両親への感謝の思いを言葉にされていました。

今回、第5弾となった「西寄語り」は東京に上京したころのご自身を主人公にした、”安川ハイム202号室”というタイトルのものでした。
タイトルバックの左端の描かれた”さるぼぼ”のイラストになぜ? と思ったのですが、それもTシャツのミッキーマウスの謎とともに、この”西寄り語り”をきいて、了解したのです。

東京の音響会社への就職を決めたものの住むアパートも決めず、家財道具は働いてひとつずつそろえるという目標を自身に課して上京した西寄さん。
最初は藤沢にある会社の寮ですごしていたそうです。
不動産屋さんをまわって町田駅から徒歩12分という築30年ほどのモルタルの2階建てアパートを借りることにしますが、いざ不動産屋さんに案内されると、不動産屋さんの歩く速度がとても早く、”徒歩”ではなく”競歩”のスピードで12分であることがわかります(笑)。

引っ越した日、両隣の方に挨拶にいきますが、1軒には”トム”と名乗るラッパーの男性が住んでいて、英語まじりで話しかけてくるのでアメリカの方かと思っていたら、日本人の方だったのです。
そしてもう1軒には”松野さん”という30代半ばの女性が住んでいらして、最初はドアチェーンもはずさずにドア越しで対応されるのですが、実直な西寄さんにこころを許され、また18歳ときいて、北海道にいる年の離れた弟と同じだとおっしゃり、”東京の弟”としてよくしてくださったということでした。
西寄さんが、お給料日を待たずに財政ピンチになったとき、パチンコで当てようとして。
結局、所持金2万円をつかいはたしてしまい、翌日、仕事先にいくための電車賃を松野さんにお借りするくだりがでてきます。
280円だったでしょうか。
交番に断られ、知り合いもいず、どうしようかと途方にくれてダメモトで松野さんにお願いするのですが、パチンコで全財産を使ってしまったという西寄さんに、”お金を借りるときは、お財布を落としたとか”もっとましな言い訳をふつうはするものだと松野さんはおっしゃって、5千円を貸してくださいました。

翌日、仕事先に行き、上司に事情を話すとこっぴどく怒られるものの、先輩がお金を貸してくださって、松野さんにすぐ返されたのです。
そのときに、返すときは玄関ドア横の洗濯機に入れておいてといわれていたので、洗濯機のなかにお借りした5千円と一緒にお礼のリンゴと高山公演にいった際、2つもらった”さるぼぼ”のひとつをいれて、松野さんを驚かせてしまうことになったのでした(笑)。

西寄さんはそんな思いをしたのに、またパチンコでお金を使ってしまいます。
ふたたび松野さんにお金を貸していただくお願いをすると、松野さんは、”お給料日までまだだいぶあるでしょ”と、1万円を貸してくださるのです。
そしてある日、手紙が西寄さんの洗濯機に入っていて。
それは松野さんからのものでした。
松野さんは結婚して実家の牧場を継ぐことにされたと書かれていて。
西寄さんに、゛自分が高校を卒業して上京したころのことを思い出させてもらった゛こと、゛会えてよかった゛と思ってくださったことが書かれていました。
結びの”貯金しなさいね”との松野さんの言葉に、積立貯金をするようになったそうですが、上京して良い方ばかりにめぐり会えてきたことへの感謝の思いを言葉にされました。
そして、今回、ういった感謝の思いとともに、ご自身の無謀だけれども一生懸命だった18歳のあの日のことを思い出して、またこれからがんばっていきたいという思いでこの題材を第5弾のテーマにされたということでした。

前だけを見ていた自分の思いきりのよさ、それはときに向こう見ずで無鉄砲でもあったかもしれませんが、そのがむしゃらながんばりを思い出して、”生涯、守りに入らず、挑戦する”という西寄さんの決意を感じて、胸熱くなりました。
そして、わたしも、自分の場所で自分なりに、がんばって、ささやかでも挑戦し続けて生きていきたいと励まされたのです。


イメージ 4
※木馬亭前のポスターには””完売”の札が!

※駆け足での更新で、失礼しました。
それからミッキーマウスのことですが、上京して初めて、いちばん安かったという理由で購入した目覚まし時計がミッキーマウスのイラストのもの。
今も使っているそうで、さだまさしさんの「案山子」がながれるエンディングの映像に登場したのです。



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