皆様、こんばんは。
今日は、「西寄ひがしトークライブツアー2019」の千穐楽にいってきました。
会場は5年前に初めてのトークライブを開催された浅草木馬亭。
ここでのライブは11回目ということで、舞台のミニテーブルに飾られた長良じゅん会長へ捧げる薔薇の数も11本になりました。
わたしは、当初、昼夜参加させていただく予定でしたが、四谷で取材のお仕事がはいってしまって...。
なんとか夜の部には間に合うということで胸をなでおろし、昼の部はお友だちのTさんにいっていただくことになったのです。
今日は、”西寄がたり”の新作を発表されるとうかがっていたので、参加できてよかった~という思いでいっぱいでした。※パンフレットの表紙です。
まずはフリートークからスタートです。
パンフレットを開けると、中にはネタのお品書きがあり、お客様のリクエストに応えながら進んでいきました。
※ネタのお品書き。全部聴きたいんですけどねっ!
今回は、”人間ドック”、”まんじゅう食べたい”、富士理容室”、”京橋の女の子”、札幌行き快速エアポート”、水森かおりさん”、”氷川きよしさん”、”あなたに似ています”についてお話しくださったかと思います。
もちろんその話のなかで、同級生のことや、可愛くて仕方のないスタッフの”西尾クン”の話題も自然に飛び出して、あっという言う間に90分近く経っていたでしょうか。
昨日はサザンクス築後できよしさんがコンサートを開催されていたので、数名のスタッフと一緒に朝7時の飛行機で東京に戻られたそうですが、その際、早速に”やらかし”てしまったことまでお話しされました(笑)。
機内のドリンクサービスの折、眠っていた西寄さん。スタッフの皆さんと離れた座席だったので、目が覚めても、特にドリンクサービスがあった旨をおしらせするステッカーも貼られていなかったので、まだだと思っているうちに到着。
スタッフの皆さんに”ドリンクサービスあった?”ときくと、”あった”との答えに、おかしいなあと思っていたところ、羽田から、浅草まで電車で移動してきて、会場に到着して、そのステッカーがお尻についていたことに気づかれたそうです(笑)。
でもどうやったらお尻に?
さすがは西寄さんですね(笑)。
お題のリクエストのラストで”氷川きよしさん”がリクエストされると、ツアー中にきよしさんに素敵なリードディフューザーをいただいたことをお話しくださいました。
包装紙も素敵なので、帰宅してゆっくりときれいに開けたいと思われて大事に持ち帰ってきたそうです。
ところが、楽屋見舞いにきてくださった親友の方が気をきかせて、西寄さんが見やすいように楽屋に届けられていた贈り物の包装をといてくださった折、きよしさんからのプレゼントも開けて、”おしゃれなもの下さるファンの方がいるんだね”と(笑)。
ところが、楽屋見舞いにきてくださった親友の方が気をきかせて、西寄さんが見やすいように楽屋に届けられていた贈り物の包装をといてくださった折、きよしさんからのプレゼントも開けて、”おしゃれなもの下さるファンの方がいるんだね”と(笑)。
そして、きよしさんといえば言い間違いですが、山川さんと会話をされていたときのこと。
共通のお知り合いの方が、足の手術をされてボルトをいれられたことを山川さんがおっしゃると、
”えっ、足にボトルをいれられたんですか?”
ときよしさん。
言い間違いに西寄さんはすぐに気づかれましたが、山川さんはそのことに気づかれないようで、
”そうなんだよ”
と。
そうしたら、さらに
”ボトル、何本いれたんですか?”
きよしさんが”ボトル”のままおたずねになると、
山川さんが、
”2本だって”
と(笑)。
またサザンクス築後でのコンサートで、会場がきよしさんのお母さまがたの祖父母の出身地の八女に近いことから、大好きだったおばあ様の思い出をお話しされて、亡くなられたときのことまで語られて、しんみりとしたムードになったそうです。
とそのとき、きよしさんは、おばあ様が柩にいれられて、というところを、おひつといってしまって、笑う展開になられたということでした。
もう~、それは、きよしさんが、おひつを柩といいまちがえたことを、西寄さんが何度もネタにされたので、”いいまちがえないように”と、構えてしまったからでしょ。
だから、わたしは、笑いませんよっ!
でも、これにはきよしさんへの1ミリの容赦もなく笑わせていただきました(笑)。
先週、新曲「大丈夫/最上の船頭」の発売記念イベントを名古屋で開催され、翌日は大阪でしたので、新幹線で移動されたときのこと。
きよしさんが窓側、西寄さんが通路側にすわっていたので、きよしさんは、車内販売でお求めになりたいものがあったそうで、
「西さん、踊り子さんが来たらよびとめてください」
と(笑)。
さすがの西寄さんも一瞬、”踊り子?”とまずご自身の耳を疑われたのではないでしょうか?
そして、
「それは売り子さん!」
と(笑)。
これがきよしさん以外の方のことだったら、西寄さん、”つくってませんか?”と疑ってしまいますが、きよしさんだったら、さもありなんと(笑)。
きゃっ、きよしさん、ごめんなさい~。
でも、ほんとなんでしょ?
そして、このフリートークの間に、ひとりのお客様の携帯電話が鳴りだしたのですが、その方も切り方がわからないようで、かといってでることもはばかられて...。
さらに、なかなか先方が電話をお切りにならなくて、もう大爆笑です。
「私が出ましょうか?」
といいながら、その独創的な着信メロディーに、
「今夜、夢できこえてきそうですね(笑)」
と西寄さん。
ようやくやんだと思ったら、またかかってきて(笑)。
名古屋公演では、われらが西尾クンが、オープニングのその瞬間、iPadを床に落とした音が鳴り響いたそうで、そのこともネタにされていましたが、この携帯電話も最高! 思いっきり笑いました(笑)。
西寄さんが、”タララララララ~ン”と着信メロディーにあわせて踊られた瞬間、わたしの前の方がお茶のはいったペットボトルを落とされたのですが、木馬亭は傾斜がついているので、そのまま、ステージの下までころころころっと、あっという間にころがっていって(笑)。
西寄さんからはその様子はみえなかったと思いますが、わたしはその様子にも大爆笑。
もう~、何もかもがおかしくって、おかしくって。おなかが痛くなるくらい大爆笑したのです(笑)。
そして、後半は”西寄がたり”第6弾。
タイトルは、”付き人はつらいよ”でした。
”創作”なので、登場人物はすべて名前を少しずつ変えていますが、林さんは森さんのことというように、誰にでもすぐにわかるものでした。
音響の仕事をするために上京して3年。
”自分がほんとうにやりたいことは演歌・歌謡曲の仕事”なのだという確信をいだき、将来を嘱望されながらも大手音響会社を退職し、森進一さんの付き人になります。
そこでいろいろなことを学び、失敗もしたそうです。
でも、どんな時も一生懸命で、大失敗をしてしまった時には、土下座をして誠心誠意謝罪をする西寄さんに、森さんはじめ周囲の方たちは、厳しくも愛情をもって接してくださいました。
そのなかで、森さんは、会話のなかでの西寄さんの返しの面白さや、なにをしてもなぜか許してしまう人柄に、ひらめくものがあり、司会の勉強をさせてみようと思われたのです。
なんの経験もない20代の若者ですから、付き人の仕事をしながらの司会者修業となりましたが、ほんとうに日々無我夢中だったそうです。
でも、初めて司会の舞台にたつことになったとき、それまで親しくしていた楽団のメンバーと、皆で楽しく飲んで、遅い時間になったので西寄さんは付き人のお仕事もあり、朝が早いので先においとまして。
そのときに、なにかをとりにもどろうとされたのでしょうか。
とりわけ親しくされていたメンバーの方が、
「ああいうやつにかぎってすぐに調子にのるんだよ。今度会ったら、”師匠!”って呼んでやろうか」
というようなことをいっているのをきいてしまって...。
西寄さんもまだ若かったので、傷ついて、ひとりで泣いたそうです。
と思えば面と向かっては厳しいことばかりおっしゃってまったくほめてくださらない会社の上役のKさんや、コマ劇場の衣裳担当のI さん達が、かげでは、”西をよろしく”とスタッフの方に頭をさげられていたことを、あとで、スタッフの女性がおしえてくださったり...。
そして、そのすべてを森さん(役名は林さんです)が、すべてご存じで、”舞台にたつということはそういうことなんだ”とおっしゃるくだりには、きよしさんのこともうかんできて、じんときました。
「西寄がたり」を語り終えたあとのトークで、西寄さんは、あらためて今では事務所の上役のKさんも、コマ劇場の衣裳担当のIさんも他界されたことをお話しされ、すべての皆さんに感謝していることを言葉にされました。
そして、陰口をおっしゃった楽団の方も亡くなられたそうですが、その方が、あの時ああいってくれたから、いつでも自分を顧みることができ今日までこの仕事を続けてくることができたのだと、今では感謝しているのだそうです。
そして、
「いちばん辛かったのは26歳のときでした。
思うところがあって森さんのところを離れてひとりでやっていこうとしたんです。
でも、後ろ盾を失って、どうしようかと。
辛かったです」
西寄さんはそこまでおっしゃると、しばし絶句されて、次の言葉がでてきませんでした。
ある方のお名前をおっしゃろうとしているのだと、すぐにわかりました。
西寄さんの言葉を待ちました。
西寄さんは、涙がこぼれて...。
そして、
「長良じゅん会長が、”俺にまかせろ”といってくださって。
森さんの事務所にもきちんとお話ししてくれました」
というようなことをおっしゃったかと思います。
もう、わたしはといえば、ここから号泣していました。
初めて西寄さんをみたとき、”あの人、なに?”なんて思ってしまったわたしでしたが、まだ20代だった西寄さんは、すでに芸能界の荒波にもまれ、すべてを一度失うに等しい思いさえ経験されていたのですね。
そんな西寄さんだからこそ、きよしさんに寄り添い、支えてくださりながら共に成長し、ときには傘になり守ってきてくださったのだなあと思い...。
涙がとまりませんでした。
明日は、小田原ダイナシティで、新曲発売記念イベントが開催されますね。
わたしは仕事で参加できないのですが、参加されるお友だちのOさんに、わたしの分もと応援を託させていただきました。
終日、仕事をがんばって、土曜日は「NHKのど自慢」の予選会の観覧にいってまいります。
そして、Yahoo!ブログのことは、もう少し考えたいことがあるので、もう少し考えがかたまりましたら、またあらためて書くことにさせてください。
今月中にはと思っています。
※以下は以前、西寄さんのことを書かせていただいたこのブログ記事をピックアップ掲載しますね。
今では西寄さんをかけがえのない存在と思わせていただいていますし、語り手&エンターティナーとしての西寄ひがしさんのファンでもあります。でも、きよしさんのファーストコンサートツアーの専属司会者としてステージに登場された西寄さんを目にしたときは、正直、”あの人、なに?”と思ったのです。西寄さん自身がヘンだったわけではないのですが、わたしが演歌の世界をまったくしらなかったので通常のコンサートに司会者がつくこと自体に違和感を感じたのでした。そのうえ、いまだにスモークがたかれても気づかないほどにきよしさんのことだけを見つめているわたしなので、ファーストコンサートツアーのときなどは、できるだけきよしさんだけをみていたい、きよしさんだけの歌やトークを聴きたいと思っていましたから。そのため、これもまた失礼すぎることなのですが、伴奏もわずらしく感じていたほど。さらに、勝手な”小姑根性”(なんて書いたら小姑のかたに失礼かもしれませんが)のような思いで、長良会長(当時は社長)やきよしさんを支えるスタッフの方をさえ、きよしさんのことを大事に考えてくれているのかしら? と、相当に斜にかまえてみつめていたのでした。ですのできよしさんのコンサートやイベントでの西寄さんの司会者ぶりも、あくまできよしさんをみつめているそのフレームのなかに入ってくる西寄さんをみつめていたのであって、きよしさんのことだけで胸がいっぱいで西寄さんにほとんど向きあってはいなかったのです。そして演歌歌手の専属司会者なるものを知らなかったわたしは、歌番組の司会者といえば高橋圭三さんや玉置宏さんのイメージしかなく、司会者というのは流暢にキマリ文句を話したりするものと思っていたので、西寄さんの司会者トークは少し頼りなく思えたのです。また比較する確固とした存在をもたなかったかわりに、またとても失礼なことに、ステージのうえで一生懸命がんばっている西寄さんにこれといった期待をいだいてもいず、それどころか20代の西寄さんにとって司会という仕事は魅力があるのかしら? 西寄さん自身はこの仕事を来年もつづけたいと思っているのかしら?と、あくまできよしさんを見つめたときに視界にはいってくる余白のなかで(ほんとうに失礼で申し訳ないです)ぼんやりとみつめていたのでした。そんなわたしが西寄さんの人柄を感じ、その存在を真っ向から受けとめるようになったのは2002年のツアーファイナルでのことでした。その年は2月28日から、きよしさんのはじめてのコンサートツアー「氷川きよしコンサートツアー2002~30万人ふれあいの旅~」が沖縄県那覇市民会館大ホールからスタートし、西寄さんは専属司会者として、”氷川きよし”を支え、苦楽をともにされたのですが、わたしはといえば、ツアーの最後の最後になるまで、西寄さんのことをどこかうたがっていたというか、信用していなかったのです(もう、ほんとうに失礼すぎますね)。ツアーファイナルとなった12月25日(水)に新歌舞伎座でおこなわれた”氷川きよし コンサート2002 ~きよしこの夜 in新歌舞伎座~”の夜の部でのこと。そのコンサートのことは以前、ブログにも書かせていただいたことがありますが、 2002年といえば、「きよしのズンドコ節」がリリースされ、きよしさんがNHKの朝の連続テレビドラマ小説「まんてん」に主人公の兄・英雄役で準レギュラー出演していた年でした。2月6日に「きよしのズンドコ節」をリリースしてオリコンシングル総合チャート初登場5位。8月2日には「星空の秋子」をリリースしオリコンシングル総合チャート初登場3位となりました。9月3日からNHK連続テレビ小説「まんてん」が放送開始となり、NHK大阪放送局の制作だったので、きよしさんは収録のために東京と大阪を頻繁に行き来しながら、さらにコンサートツアーで全国をまわっていたのです。12月25日の夜の部でアンコールの最後の1曲まで歌いおえると緞帳がスルスルとおりてきました。ああ、これで無事にすべてのコンサートが終了したのだ。そう思っていたら、緞帳が3分の2ほど降りてきたところで再びあがっていったのです。”エッ 何で? 緞帳が壊れちゃったのかしら?”とドキッとしたのですが、ステージには藤林さんはじめHKピュアリバーの皆さんが笑顔で演奏をされていて、きよしさんの笑顔も目に入り、司会の西寄さんも舞台に戻られていたのです。80か所160公演(公式では70か所140公演)の最後ということでの粋な演出でした。きよしさんはあらためて1年間の思いを語ってくださったのですが、さまざまな出来事が思い出されたのでしょう。コンサートの後半からアンコールまで涙されながらも気丈に歌っておられましたが、もう、涙、涙、涙...。言葉が何も出ず、しばらくその場で泣いておられたのです。そんなきよしさんを西寄さんもバンドの皆さんもあたたかな笑顔で見つめておられたのですが、そこで 西寄さんが「1年間、いろいろなことがありました。生身の人間ですから、正直、コンディションがよくない日もありました。それでも休むことなく、常に笑顔で心を込めて歌い続けてきたのです。本当に立派です。お疲れ様でした」というようなことをおっしゃると、きよしさんは、「僕だけじゃないです。西寄さんだって一緒にがんばってきてくださったんです」と西寄さんを労われたのでした。きよしさんの言葉に、西寄さんは、「とんでもありません。私なんかたいしたことしていません」と、おっしゃられたかと思います。すると、きよしさんが少し強い語調で「そんなことないです。本当にがんばってくださったんです。あの時、西寄さんだって...」西寄さんには、きよしさんのその一言で思い出される出来事があったのでしょう。一瞬絶句されて、そして話そうとしても、涙で何も言葉が出てこなくなってしまったのです。西寄さんは、少し後ろを向かれ、そして、また何かを話そうとしたのですが、どうしても言葉にならず「司会者なのに申し訳ありません。泣いてしまって申し訳ありません、申し訳ありません...」と、やっとのことでおっしゃったのです。場内にわれるような拍手が起こり、苦楽を共にされたきよしさんと西寄さんとの間に生まれた深い信頼に感動せずにはいられませんでした。わたしは今も、この時の西寄さんは、これ以上ない最高の司会をされたと思っています。ですのでこのことを書いても司会者として不名誉にはならないと思い、ここでも書かせていただくことにしましたが、わたしは、あのときの西寄さんの姿を見て、きよしさんは、なんという素晴らしい司会者に出会えたのだろうかと、心からその出会いに感謝したのです。以後、遅ればせながら、西寄さんが、”氷川きよし”とともに歩み、その魅力を最大限につたえるために、どんな努力をされているのかを考えるようになりました。そして、西寄さんが美声の持ち主であることや、急場をキレのあるトークでのりきる様子にようやく気づき、勝手ながら西寄さん自身が、”氷川きよし”の司会者としてのオリジナルスタイルを確立しようとしていることを感じるようになったのです。うまくいえないのですが、いかにも司会者と皆が思うようなステロタイプな司会者トークではなく、もっとずっときよしさんのファンの心に深く近しく寄りそうトークをめざし、みずからの心からの言葉できよしさんのことを語ろうとされているのではないかなと。と、ここまではきよしさんがデビュー10周年を迎える頃までのこと。きよしさんが10周年を迎える頃、西寄さんは華々しい場では颯爽としたトークをきかせてくださり、またファンときよしさんとをつないでくださるときにはファンの目線で語られ、美声での名調子の口上もきかせてくださるようになり、司会者として”押しも押されぬ”存在になられていたと思います。わたしはまさにその頃、このブログをはじめたのでした。でも、いざブログできよしさんのことを書こうとしたとき、どんな距離感で書きとめていったらしっくりくるかしら?と、大げさでなく途方にくれたのです。もちろん勝手にマイペースで書かせてはいただいてはいますが、ブログは自分だけの日記でもないし、きよしさんへの手紙でもありませんから、きよしさんとの”距離感”がつかめなければ、文体もスタイルもきよしさんの呼称さえさだまりません。そんなわけで書きだしてからもまだまだ試行錯誤を重ねるようになったそのとき、わたしには西寄さんのきよしさんに対する”距離感”がとても気持ちのよいものに思え、大きな大きなヒントになったのでした。そして、ときどき、”氷川きよし”の魅力を語るのに、どんな言葉も似つかわしくなく感じられて、言葉が追いつかなくなることがあるのですが、そんなとき、西寄さんだったらどんな言葉で語ってくださるかしら? と思うようにもなったのです。そんなわたしが、昨年からのトークライブのなかで、なるほどそうだったのかと思わせていただいたことが3つありました。ひとつは西寄さんの司会者としてのヒストリー。森進一さんの付き人をしていて、語りが面白いからとすすめられて付き人をしながら司会者をするようになったことをしり、司会者としての基礎をきっちり築かれていたにもかかわらず、それらを白紙にしたかのように、流暢なトークをある意味封印することになっても、お客さまに寄り添いそのペースにあわせた語りをされていたのだということを確信させていただきました。ふたつめは、きよしさんとのトークについて、”メモリアルコンサート”ではうちあわせをしていないこと。”周年コンサート”や”きよしこの夜”などではカメラがはいって映像化もするので、そういうときこそトークはうちあわせているのだと、わたしは思っていたのです。でも、そういうときこそ、そのとき限りの構成や、そのときに初めて唄う曲もたくさんある状態なので、きよしさんの負担を少しでも軽くしたいと、トークはうちあわせなしで臨まれるということをうかがい、驚きました。でも、それも西寄さんだからこそ、うちあわせなしでも、きよしさんから最高のトークをひきだしてくださるという信頼があってのことでしょう。そして3つめは、先日の”トークライブ”でお話しくださったことでしたが、心がおれそうになるほど苦悩されていた西寄さんを長良会長が、そっと励ましてくださったこと。西寄さんのお話をきいていて、長良会長は西寄さんを信頼して、そっと、でもしっかりと見守ってくださっていたことを感じたのです。きよしさんが会長は歌のことでなにかをおっしゃったことはほとんどなかったとおっしゃっていたかと記憶しているのですが、西寄さんの司会についてもまたそうだったのですね。西寄さんを信じて、黙って見守っていらした長良会長の大いなる愛を感じて、胸がじんときます。そして、あらためて今の司会のスタイルは西寄さんが苦悩と努力のなかでつくりあげられたものであることを感じたのです。2000年2月2日に”氷川きよし”がデビューし、全国コンサートツアーを準備しはじめたとき、それまでの演歌・歌謡曲の世界の司会者は年配の方ばかり。そこで、”氷川きよし”と一緒に歩み、成長していくような司会者はいないだろうかと、若い司会者を探していることを西寄さんはしったのだそうです。”氷川きよし”の司会者に、”西寄ひがし”をと、抜擢されたのは、長良会長。西寄さんは、そのことを、「長良会長に拾っていただきました」と、トークライブのなかでおっしゃっていました。西寄さんは長良会長が心に蒔いてくださった種をずっとだいじに育ててきたのですね。そして、心に種を蒔くということで、思い浮かんだのは西寄さんの中学の先生です。浅草木馬亭での初のトークライブでの”西寄がたり”の第1回”未来への「心の旅」”で、西寄さんは、中学3年生のときの担任の先生がおっしゃった”3つの心”についてお話しされていました。先生は、 人生は辛いこと、苦しいことのほうが多い。けれどもそのなかにほんの少し、嬉しいことや楽しいことがある。その少しの嬉しいことや楽しいことが、苦しいこと、悲しいことを帳消しにしてくれる。それが人生なのだと、卒業の日にお話しされたそうです。さらに、大切な“3つの心”として、なにがあってもあきらめない心、弱いものを助ける心、そして、感謝を忘れない心を挙げられたのだそうです。そんな先生のおしえをずっと心にいだいて、”西寄がたり”としてまた多くの人につたえて、種を蒔かれていることをその語りをきいていて感じたのです。わたしは、自分自身も苦しい思いをしていたある日のコンサートでの西寄さんのことを思いだすことがあります。きよしさんのヒストリーをトークされる際、“明日こそは!”、”明日こそは!” と、拳を握り、一語、一語、力をこめて語っておられました。その魂の叫びのような西寄さんの語りは、デビューがきまらず歌手になることをあきらめかけた日もあったのに、それから幾多の困難を乗り越えて今日までがんばってこれらたんだから大丈夫、なにもおそれるものなどないのだと、きよしさんを、そしてわたしたちをその言葉で心の底から励ましてくださったのでした。わたしは、あのときの西寄さんにどれほど勇気づけられたことでしょう。忘れることはできません。きよしさんがいて、西寄さんがいて、わたしたちファンがいて。わたしは西寄さんの真摯な生きざまに、ともに笑って泣いて、学び、いくつになっても夢をもち、成長していきたいと思わせていただくのです。【記・2017年2月1日】元記事はこちらです。