「歌の道を皆さんによって歩ませていただきました」
きよしさんはそうおっしゃると、
「ほんとうですよ」
とひとこと。
そして客席からきこえてきたいくつかのお声に、
「えっ? なんですか? なんでもいってください。”ばかやろう!”っていっていただいても。自分、けっこう心強いんで」
と。
でも、そんなふうにおっしゃたそばから、”きよし~!”と男性の太いお声が響くと、
「うわっ、よかった。”ばかやろう!”っていわれるのかと思った(笑)」
と胸をなでおろされたのでした(笑)。
そして、
「浮き沈みの激しい芸能界では、鉄のこころにならないとと思うことがあります。
これから、一喜一憂せずに、歌手として確信をもって歌っていきたいと思います」
オリンパスホール八王子での夜の部のオープニングトークはそんなふうに始まったかと思います。
※このマーク、ポップで気にいってしまいました。
ステッカーとか、いろいろつくってくださらないかしら?
「さすらい慕情」ではじまる、”男ごころを歌ったオリジナル曲のコーナーでは、
「これまでいろいろな作品、様々なタイプの作品を歌わせていただいてきました。
ひとりひとりの主人公になりきって、衣裳もいろいろ考えて、歌のキャラクターづくりをしましたね~。
コスチュームによって歌のイメージも変わりますから。
なかでも男ごごろを歌った歌を数多く歌ってきました。愛する女性を探し求めて、いつまでどこまで探せばいいんだろうって(笑)。
あの娘を探して北から南、結局みつからないんですよね~。
これから歌う『さすらい慕情』は、1番で博多にいって、2番ではどこにいくんでしたっけ?
3番は鹿児島か」
とおっしゃいました。
゛長崎!゛
と、わたしも皆様と一緒にいわせていただきましたが、
きよしさんは、
「長崎でしたっけ?」
と、まだピンとこない様子(汗)。
わたし、きよしさんに聴こえるはずもないのに、
゛だって、♪眼鏡橋から異人館~゛じゃない?゛
と思わず歌ってしまい、Kさんに驚かれてしまいました(笑)。
゛ま、いっか゛
という様子できよしさんは微笑まれると、一曲入魂の歌唱がつづきました。
これから歌う『さすらい慕情』は、1番で博多にいって、2番ではどこにいくんでしたっけ?
3番は鹿児島か」
とおっしゃいました。
゛長崎!゛
と、わたしも皆様と一緒にいわせていただきましたが、
きよしさんは、
「長崎でしたっけ?」
と、まだピンとこない様子(汗)。
わたし、きよしさんに聴こえるはずもないのに、
゛だって、♪眼鏡橋から異人館~゛じゃない?゛
と思わず歌ってしまい、Kさんに驚かれてしまいました(笑)。
゛ま、いっか゛
という様子できよしさんは微笑まれると、一曲入魂の歌唱がつづきました。
ところでわたし今年になって、とりわけ「しぐれの港」を聴いていると、今まで以上にうっとりするのです。
哀愁が深まり、包容力がまして、よい意味での男臭さが広がるのを感じて...。
きよしさんの歌唱には、年齢を重ねたからというだけでは答えにならないほどの奥行きと深みがましていると思うのです。
きっとそれは、きよしさんが、日々、歌に向き合い、その世界を掘り下げる努力をされているからなのだと想像します。
そして、もし、あらためて、そういう観点で1曲1曲を聴いていったとしたら、きよしさんは、間違いなくどの曲も歌うほどに進化&深化させていらっしゃるよですもの!
ほんとうに素晴らしいことです。
きっとそれは、きよしさんが、日々、歌に向き合い、その世界を掘り下げる努力をされているからなのだと想像します。
そして、もし、あらためて、そういう観点で1曲1曲を聴いていったとしたら、きよしさんは、間違いなくどの曲も歌うほどに進化&深化させていらっしゃるよですもの!
ほんとうに素晴らしいことです。
※先にアップしたキーホルダーの表側は、
きよしさんの笑顔が!
司会の西寄ひがしさんがこの日、きよしさんとの思い出を語っておられました。
ファーストコンサートツアーで北海道でコンサートを開催されたとき、きよしさんが客席をご覧になって号泣されたことがあったのです。
そのことをご存じの方もおられると思いますが、いちばん前の席に、その年に亡くなられたおじいさまにそっくりな方がすわっておられて...。
きよしさんはおじいさまのことが思いだされて涙をとめることができなかったのです。
その一方で、ある年の福岡サンパレスでの昼の部のコンサートで。
きよしさんは客席のお母さまをみつめて涙ぐんでおられたそうです。
でも、コンサートが終わったあと、お母さまがお越しになるのは夜の部だったそうで、
「それではきよしさんがお母さんだと思っていたのは一体どなただったのでしょう」
と、おっしゃると、場内大爆笑となりました(笑)。
きよしさんを司会者として今日までみつめてきて、どんなときも一曲入魂で、そのとき持てるすべてを出しきって歌うきよしさんに、みていることしたできない自分をもどかしく思っったことも多々あったそうです。
「氷川きよしは喜び、悲しみ...人生を歌ってきました。
大げさでなく、命を削るようにして歌っているのをはたでみつめることしかできず、もどかしく思ったこともありました。
歌うと胸をえぐられる感動を与えてくださいます。
そしてあの優しさ...。
以前、長崎にコンサートでお邪魔したとき、きよしさんとふたりで長崎の街をウォーキングしたことがあります。
途中でカステラ屋さんをみつけて、お店にはいると、きよしさんは、これはマネージャーさん、これはバンドの方、こっちはスタッフにと、カステラをお求めになって、気づいたら、ふたりで両手に紙袋をもつことになってしまいました。
それで、ウォーキングをつづけられなくなって、タクシーでホテルにもどることにしたんです。
なんの運動にもなりませんでした(笑)。
でも、そういう方なんです」
と。
そして、先日のご自身のトークライブでもネタにされていた、イベントのために名古屋から大阪に新幹線で移動される際、車内の売り子さんのことを、踊り子さんときよしさんが言い間違えたことまで披露されたのです(笑)。
西寄さんのトークを、お着換え中におききになっていたようで、お召し替えされて登場されたきよしさんは、
「”踊り子さん”なんて、言いましたっけ?」
と(笑)。
「はいっ!」
と西寄さんに断言されると、
「そうですか~? 忘れました」
ときよしさん(笑)。
ほとんどの方が、きよしさんなら”さもありなん”というムードに不承不承(ふしょうぶしょう)そうおっしゃったのでしょうか。
そんなきよしさんに、
「きよしさんのいい間違えって、イヤじゃないんですよ。期待しちゃう!」
と西寄さんはおっしゃったのです。
と、そこで子ども時代の話題になって、
「子どものころ、母と買い物にいって、他の人の買い物カゴなのに、自分ちのだと思って、そのなかのあるものを手に取って、”なんでこれ買うと?”っていったら、よその人に、”それはうちのですっ!”ってすごい剣幕でいわれて、衝撃でしたね~」
と。
そういうことありますよね。そ
して、子どもだからなにも言い返せないだけにこころにずっとのこるのでしょうね。
また、新元号の話題になって、きよしさんが、”令和”を書くジェスチャーをされると、
「ぜひ、書で書いていただきたいですね。きよしさん、字がお上手だから」
と西寄さんがひとこと。
きよしさんは、「週刊女性」さんの取材で、書を書かれたことをおしえてくださいました。
ぜひ会報や携帯サイトにも、それぞれのバージョンでお書きになって載せてくださらないかしら?
と期待をふくらませたのです。
そして、その書の話題から、
「母は字がきれいなんですよ。母と字も性格も似てるんです。
しゃべり方も一緒ですよね」
きよしさんが西寄さんに同意を求められると、
「そうですね。ほんとうにそっくりですよ~。
メル友ですし、電話でも週に2、3回お話しさせていただくんです。
いつも、”血圧はどげんですか?”って最初におっしゃるんですよ(笑)」
きよしさんは、楽しそうに西寄さんのお話をおききになられると、
「40歳すぎて、今頃になってね、母に、”ごめんね。子供産みきらんで。もうひとり産んでおけばよかった。きよしひとりに負担かけて”っていうんですよ」
としんみりとお話しされました。
「母も小柄ですし、会うたびに小さくなっている気がします。
ほんとうに1日生きているそのことが、奇跡だと思います。
命はどんな財宝でも買うことができませんから。
1日生きているそのことが宝です。
だから、明日なにがあっても悔いがのこらない思いで、今日も歌っています」
とおっしゃったのです。
そして、松尾芸能賞を受賞された話題を西寄さんがされると、
「厳粛な雰囲気で、皆さん、セレブリティーな方ばかりで。
そこで、思いきり、”ズンドコ節”を歌ったら、シーンとして(笑)。
それで、なんだかゾクゾクしてね~。
なんていうんですか? うーん...。
自分、かわってるんですよ(笑)。
だから(その雰囲気も)楽しかったです!」
と。
そして、
「見て下さっている方がおられるんだと思って、ほんとうに嬉しかったです。
振り返ると、
(咳払いをされて・笑)
ファンの皆さんが応援してくださったから歌ってくることができたんです。
座長公演も大きな劇場でやらせていただいてきましたが、あんまり男臭いのは苦手なんです。
立ち回りとか、闘うのとか、ストレスになって、うつ病になっちゃう。
初めての公演でも、なにか自分の考えている路線とちがうような気がして、あのときは、”カツラはかぶりたくない”といわせていただきました」
きよしさんにはたくさんの思い出がよみがえってきたのでしょう。
「22歳でデビューさせていただきましたけど、そのときはテレビに出たいっていうより、皆さんに歌で喜んでいただきたいという思いでした。
歌手をめざしたきっかけも、年配の方の前で歌わせていただいて喜んでいただいたことでしたから。
あのとき、生まれてきてよかった。生きてきてよかったと思ったんです。
人前に出るのは今でもほんとうのことをいえば苦手です。
子どものころは母のスカートのうしろの隠れて、”すかん、すかん”っていってました。
自分の気持ちをうまくいいあらわせなくて、言葉がでてこなくて悔しい思いがあったんです。
でも、歌だったらつたえられるって、あるとき思ったんです。
さびしい思いも苦しい思いも無駄にならないんですよね。
それをバネにして生きていかれますから。
やっぱり命ある限り生きていかないと。
(みずから)死んではいけないって思います。
ニュースをみても、若い人の自殺が報じられると、こころが痛みます。
自分になにかできないかって思って。
そういう思いも歌で歌って、社会のお役にたてる歌手になれたらって思います。
(そんなことを考えるのも)年ですかね~。
あと、だいぶ余裕ができてきたんでしょうね~」
と、感慨深げにおっしゃったのです。
ラストトークでは、両A面シングル「大丈夫/最上の船頭」について、
「師匠の水森英夫先生が、
”おまえは俺の弟子だから、20周年は一緒にやろう”っていってくださったんです。
そして、
”30周年のときは俺も年齢を重ねていて、できるかわからないから”
っておっしゃって。
そんなことをいう年齢になったのかなって思いました。
それで、『最上の船頭』をつくってくださったんです。
そこに、20周年だからと、水森先生がつくってくださって以前レコーディングはしていた『大丈夫』があったと思って。それを一緒にだしたらどうかってことになったんですよ」
と、先生とのエピソードをお話しくださいました。
きよしさんは、”ディズニーランド”を思い描いて今回のコンサートを構成してくださったそうですが、素晴らしい歌、そして夢のなかにいるようなステージ。
それに加えて、こんなにも熱い胸のうちをお話しくださって、胸がいっぱいです。
”きよしさん、20周年、おめでとうございます!”
と、この日、あらためて、こころの底から嬉しさと感動と、感謝の思いがわいてきました。
※以上、駆け足で、こころにのこったトーク中心に書いてみました。
メモも(自分の文字なのに判読できないものが多々あって(汗)、記憶を頼りに書きましたので、また思いだしたことなどありましたが、これからの記事のなかで書きますね。
そういえば、2月2日のコンサートに水森先生がお越しくださって、「大丈夫」について、”「大丈夫」を聴いたら「きよしのズンドコ節」が地味に感じたよ。「大丈夫」、いいね~”といってくださったこと、先日のコンサートでお話しくださっていましたね。
「大丈夫/最上の船頭」はリリースした途端に猛ダッシュで、素晴らしいですね。
最高のスタートをきることができました。
皆様、これからますます多くの方にとどけていきましょう!