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Channel: 天晴れ! HK伝説 ~氷川きよしさんに出会えた奇跡に感謝!~
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今日はデビュー記念日イブ! 「ドラゴンボール超」のこと、そして司会の西寄ひがしさんのこと、書こうと思います。

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日付がかわって2月1日。
今日は氷川きよしさんのデビュー記念日イブ!
2月1日、2日の両日、4公演コンサートを開催されますね。
わたしは両日、夜の部に参加させていただきますので、楽しいコンサートの様子をご報告させていただければと思っています。

また、お声がけをさせていただく”お祝いメッセージ”の詳細も、コンサートの記事と並行してアップできそうです。
ご参加、よろしくお願いいたします。

きよしさんは、昨日、声優の野沢雅子さんのギネス認定式が東京・バンダイナムコエンターテインメント本社でおこなわれ、祝福にかけつけられたそうですね。
野沢さんは、”ドラゴンボール”シリーズで主人公の孫悟空を演じられ、現在までリリースされた同作品関連のビデオゲームにおいて、
”ひとつのビデオゲームのキャラクターを最も長い期間演じた声優”、
”ビデオゲームの声優として活動した最も長い期間”
の2項目でギネス世界記録に認定されました。
素晴らしい偉業ですね。
野沢さん、おめでとうございます。


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そして、前後しますが30日には「ノンストップ!」で野沢雅子さんと対談され、そのなかで、きよしさんが歌唱されているオープニング曲「限界突破×サバイバー」をながしてくださっていました(嬉)。
ロックテイストなメロディにきよしさんのアグレッシブな歌声! もうドッキドキです。
”スーパーサイヤ人”にあこがれているきよしさんは、人生で一度は金髪にしてみたいと野沢さんにお話しされていましたが、これまでも「獅子」で銀髪。「御免」で連獅子の赤髪にトライされ、いずれも素敵だったきよしさんですから。
ぜひぜひ、金髪にもトライしていただきたいですね。


今夜はこのあと、とても個人的な、それもかなり恥ずかしくもある思いを書いてみようと思います。
とりとめないものになるかもしれませんが、、もしよろしければ、お読みくださると嬉しいです。


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というわけでこれ以降はとても失礼に思えることも、”そんなこともあって今に至っている”ということをおつたえするため、書くことになりそうです。
少し前から”書く、書く”といって書けないでいた、わたしの、西寄ひがしさんへの思い。
いざ書きだしてみて、ほんとうの思いというのは、おそろしく個人的で、恥ずかしいことに気づきました。
でも、”書く、書く”とブログになんどか書いて、お待ちくださっている旨、おしらせくださる方もおられましたので、まずは書いてみて、アップしてみます。

昨年のコンサートで、きよしさんが「望郷酒場」を唄ってくださっていたとき、わたしはいつでも涙しておりました。
司会の西寄さんが、曲紹介(曲振り)で、”今夜は夢で逢いたい”というフレーズをおっしゃっていたのですが、その言葉が心にしみて...。
きよしさんの歌唱を聴いていると、どこか懐かしい居酒屋さんの光景がうかんできたのです。
はじめて訪れたはずのお店なのにママさんもお店にいるお客さんもやっぱりどこか懐かく感じられて、どこかであったことがあるのかな? それとも誰かに似ているのかな?
とそのときは思っているのですが、あとになってそれは今はもう会えない人たちだったことに気づくのです。
そのお店がどこにあったのかもなぜだか思いだせなくなっていて。
ああ、夢でいいからもう一度あの人たちに逢えないかしら?
と。
その体験を経てからは、きよしさんの歌唱を聴くたびにそんな光景を勝手ながら夢想して、歌のなかで懐かしい人たちに逢っているような思いになっていたのでした。
そのため、涙がとまらなくなることしばしばでしたが、わたしは幸せな思いにさせていただいていたのです。
そして、”西寄ひがし”の”曲紹介(極振り)が、”氷川きよし”の歌の紹介にとどまらず、その歌の魅力や世界観に広がりをもたせるものになっていることを、今さらながら実感したのでした。


今では間違いなくわたしにとっても、西寄さんをかけがえのない存在と思わせていただいていますし、語り手&エンターティナーとしての西寄ひがしさんのファンでもあります。
でも、きよしさんのコンサートツアーの専属司会者としてステージに登場された西寄さんの目にしたときは、
正直、”あの人、なに?”
と思ったのです。
西寄さん自身をヘンだったわけではないのですが、わたしが演歌の世界をまったくしらなかったので通常のコンサートに司会者がつくとこと自体に違和感を感じたのでした。
そのうえ、いまだにスモークがたかれても気づかないほどに、きよしさんのことだけを見つめているわたしなので、ファーストコンサートツアーのときなどは、できるだけきよしさんだけをみていたい、きよしさんだけの歌やトークを聴きたいと思っていましたから。
そのため、これもまた失礼すぎることなのですが、伴奏もわずらしく感じていたほど。
さらに、勝手な”小姑根性”(なんて書いたら小姑のかたに失礼かもしれませんが)のような思いで、長良会長(当時は社長)やきよしさんを支えるスタッフの方をさえ、きよしさんのことを大事に考えてくれているのかしら? と、相当に斜にかまえてみつめていたのでした。

ですので、きよしさんのコンサートやイベントでの西寄さんの司会者ぶりを、これもまた失礼なことですが、あくまできよしさんを見つめているそのフレームのなかに入ってくる西寄さんをみつめていたのであって、きよしさんのことだけで胸がいっぱいで西寄さんにほとんど向きあってはいなかったのです。
そして演歌歌手の専属司会者なるものを知らなかったわたしは、歌番組の司会者といえば高橋圭三さんや玉置宏さんのイメージしかなく、司会者というのは流暢にキマリ文句を話したりするものと思っていたので、西寄さんの司会者トークは少し頼りなく思えたのです。
そして、西寄さんと比較する確固とした存在をもたなかったかわりに、またとても失礼なことに、ステージのうえで一生懸命がんばっている西寄さんにこれといった期待をいだいてもいず、それどころか20代の西寄さんにとって司会という仕事は魅力があるのかしら? 西寄さん自身はこの仕事を来年もつづけたいと思っているのかしら?
と、あくまできよしさんを見つめたときに視界にはいってくる余白のなかで(ほんとうに失礼で申し訳ないです)ぼんやりと見つめていたのでした。


そんなわたしにとって、はじめて、西寄さんの人柄を感じ、その存在を真っ向から受けとめるようになったのは、2002年のツアーファイナルでのことでした。
その年は2月28日から、きよしさんのはじめてのコンサートツアー”氷川きよしコンサートツアー2002~30万人ふれあいの旅~」が沖縄県那覇市民会館大ホールからスタートし、西寄さんは専属司会者として、”氷川きよし”を支え、苦楽をともにされたのですが、わたしはといえば、ツアーの最後の最後になるまで、西寄さんのことをどこかうたがっていたというか、信用していなかったのです(もう、ほんとうに失礼すぎますね)。

ツアーファイナルとなった12月25日(水)に新歌舞伎座でおこなわれた”氷川きよし コンサート2002 ~きよしこの夜 in新歌舞伎座~”の夜の部でのこと。
そのコンサートのことは以前、ブログにも書かせていただいたことがありますが、       
2002年といえば、「きよしのズンドコ節」がリリースされ、きよしさんがNHKの朝の連続テレビドラマ小説「まんてん」に主人公の兄・英雄役で準レギュラー出演していた年でした。

2月6日に「きよしのズンドコ節」をリリースしてオリコンシングル総合チャート初登場5位。
8月2日には「星空の秋子」をリリースしオリコンシングル総合チャート初登場3位となりました。
9月3日からNHK連続テレビ小説「まんてん」が放送開始となり、NHK大阪放送局の制作だったので、きよしさんは収録のために東京と大阪を頻繁に行き来しながら、さらにコンサートツアーで全国をまわっていたのです。


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12月25日の夜の部でアンコールの最後の1曲まで歌いおえると緞帳がスルスルとおりてきました。
ああ、これで無事にすべてのコンサートが終了したのだ。
そう思っていたら、緞帳が3分の2ほど降りてきたところで再びあがっていったのです。
”エッ 何で? 緞帳が壊れちゃったのかしら?”
とドキッとしたのですが、ステージには藤林さんはじめHKピュアリバーの皆さんが笑顔で演奏をされていて、きよしさんの笑顔も目に入り、司会の西寄さんも舞台に戻られていたのです。
80か所160公演(公式では70か所14公演)の最後ということでの粋な演出でした。

 
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きよしさんはあらためて1年間の思いを語ってくださったのですが、さまざまな出来事が思い出されたのでしょう。コンサートの後半からアンコールまで涙されながらも気丈に歌っておられましたが、もう、涙、涙、涙...。
言葉が何も出ず、しばらくその場で泣いておられたのです。
そんなきよしさんを西寄さんもバンドの皆さんもあたたかな笑顔で見つめておられたのですが、
そこで 西寄さんが
「1年間、いろいろなことがありました。生身の人間ですから、正直、コンディションがよくない日もありました。それでも休むことなく、常に笑顔で心を込めて歌い続けてきたのです。本当に立派です。お疲れ様でした」
というようなことをおっしゃると、
きよしさんは、
「僕だけじゃないです。西寄さんだって一緒にがんばってきてくださったんです」
と西寄さんを労われたのでした。
 
 
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きよしさんの言葉に、西寄さんは、
「とんでもありません。私なんかたいしたことしていません」
と、おっしゃられたかと思います。
すると、きよしさんが少し強い語調で
「そんなことないです。本当にがんばってくださったんです。あの時、西寄さんだって...。」
西寄さんには、きよしさんのその一言で思い出される出来事があったのでしょう。
一瞬絶句されて、そして話そうとしても、涙で何も言葉が出てこなくなってしまったのです。
西寄さんは、少し後ろを向かれ、そして、また何かを話そうとしたのですが、どうしても言葉にならず
「司会なのに申し訳ありません。泣いてしまって申し訳ありません、申し訳ありません...」
と、やっとのことでおっしゃったのです。

場内にわれるような拍手が起こり、苦楽を共にされたきよしさんと西寄さんの間に生まれた深い信頼に感動せずにはいられませんでした。
わたしは今も、この時の西寄さんは、これ以上ない最高の司会をされたと思っています。
ですのでこのことを書いても司会者として不名誉にはならないと思い、ここでも書かせていただくことにしましたが、わたしは、あのときの西寄さんの姿を見て、きよしさんは、なんという素晴らしい司会者に出会えたのだろうかと、心からその出会いに感謝したのです。
 

以後、遅ればせながら、西寄さんが、”氷川きよし”とともに歩み、その魅力を最大限につたえるために、どんな努力をされているのかを考えるようになりました。
そして、西寄さんが美声の持ち主であることや、急場をキレのあるトークでのりきる様子にようやく気づき、勝手ながら西寄さん自身が、”氷川きよし”の司会者としてのオリジナルスタイルを確立しようとしていることを感じるようになったのです。
うまくいえないのですが、いかにも司会者と皆が思うようなステロタイプな司会者トークではなく、もっとずっときよしさんのファンの心に深く近しく寄りそうトークをめざし、みずからの心からの言葉できよしさんのことを語ろうとされているのではないかなと。
そう思うようになったら、またまた遅ればせながら西寄さんが美声の持ち主であることや、”どうなっちゃうの?”というライブならではの急場をキレあるトークで幾度ものりきってきたことに気づいたのでした。


と、ここまではきよしさんがデビュー10周年を迎える頃までのこと。
そのころ、西寄さんは華々しい場では、さっそうとした語りをきかせてくださり、またファンときよしさんとをつないでくださるときにはファンの目線で語られ、美声での見事な口上もきかせてくださるようになり、司会者として”押しも押されぬ”存在になられたことを感じていたのです。

その頃、わたしは、このブログをはじめたのでした。
いざ、ブログできよしさんのことを書こうとしたとき、どんな距離感で書きとめていったらしっくりくるかしら?
と、大げさでなく途方にくれたのです。
もちろん勝手にマイペースで書かせてはいただいてはいますが、ブログは自分だけの日記でもないし、きよしさんへの手紙でもありませんから、きよしさんとの”距離感”がつかめなければ、文体もスタイルもきよしさんの呼称さえさだまりません。
そんなわけで書きだしてからもまだまだ試行錯誤を重ねるようになったそのとき、わたしには西寄さんのきよしさんに対する”距離感”がとても気持ちのよいものに思え、大きな大きなヒントになったのでした。
そして、ときどき、”氷川きよし”の魅力を語るのに、どんな言葉も似つかわしくなく感じられて、言葉が追いつかなくなることがあり、そんなとき、西寄さんだったらどんな言葉で語ってくださるかしら? と思うようにもなったのです。

そんなわたしが、昨年からのトークライブのなかで、なるほどそうだったのかと思わせていただいたことが3つありました。
ひとつは西寄さんの司会者としてのヒストリー。
森進一さんの付き人をしていて、語りが面白いからとすすめられて付き人をしながら司会者をするようになったことをしり、司会者としての基礎をきっちり築かれていたにもかかわらず、それらを白紙にしたかのように、流暢なトークをある意味封印することになっても、お客さまの寄り添いそのペースにあわせた語りをされていたのだということを感じさせていただきました。

ふたつめは、きよしさんとのトークについて、”メモリアルコンサート”ではうちあわせをしていないこと。
”周年コンサート”や”きよしこの夜”などではカメラがはいって映像化もするので、そういうときこそトークはうちあわせているのだと、わたしは思っていたのです。
でも、そういうときこそ、そのとき限りの構成や、そのときに初めて唄う曲もたくさんある状態なので、きよしさんの負担を少しでも軽くしたいと、トークはうちあわせなしで臨まれるということに、驚きました。
でも、それも西寄さんだからこそ、うちあわせなしでも、きよしさんから最高のトークをひきだしてくださるという信頼があってのことでしょうね。

そして3つめは、先日の”トークライブ”でお話しくださったことでしたが、心がおれそうになるほど苦悩されていた西寄さんを長良会長が、そっと励ましてくださったこと。
西寄さんのお話をきいていて、長良会長は西寄さんを信頼して、そっと、でもしっかりと見守ってくださっていたことを感じたのです。
きよしさんが会長は歌のことでなにかをおっしゃったことはほとんどなかったとおっしゃっていたかと記憶しているのですが、西寄さんの司会についてもまたそうだったのですね。
長良会長の大いなる愛を感じて、胸がじんときます。


2000年2月2日に”氷川きよし”がデビューし、全国コンサートツアーを準備しはじめたとき、それまでの演歌・歌謡曲の世界の司会者は年配の方ばかり。
そこで、”氷川きよし”と一緒に歩み、成長していくような司会者はいないだろうかと、若い司会者を探していることを西寄さんはしったのだそうです。
”氷川きよし”の司会者に、”西寄ひがし”をと、抜擢されたのは、長良会長。
西寄さんは、そのことを、
「長良会長に拾っていただきました」
と、トークライブのなかでおっしゃっていました。

浅草木馬亭での初のトークライブでの”西寄がたり”の第1回”未来への「心の旅」”で、西寄さんは、中学3年生のときの担任の先生がおっしゃった”3つの心”についてお話しされていました。

先生は、
人生は辛いこと、苦しいことのほうが多い。けれどもそのなかにほんの少し、嬉しいことや楽しいことがある。
その少しの嬉しいことや楽しいことが、苦しいこと、悲しいことを帳消しにしてくれる。
それが人生なのだと、卒業の日にお話しされたそうです。
そして、大切な“3つの心”として、
なにがあってもあきらめない心、
弱いものを助ける心、
そして、感謝を忘れない心を挙げられたのだそうです。


わたしは、自分自身も苦しい思いをしていたある日のコンサートでの西寄さんのことを思いだすことがあります。
きよしさんのヒストリーをトークされる際、“明日こそは!”、”明日こそは!” と、拳を握り、一語、一語、力をこめて語っておられました。
その魂の叫びのような西寄さんの語りは、
デビューがきまらず歌手になることをあきらめかけた日もあったのに、それから幾多の困難を乗り越えて今日までがんばってこれらたんだから大丈夫、なにもおそれるものなどないのだと、
きよしさんを、そしてわたしたちをそのことばで心の底から励ましてくださったのでした。
わたしは、あのときの西寄さんにどれほど勇気づけられたことでしょう。
忘れることはできません。
きよしさんがいて、西寄さんがいて、わたしたちファンがいて。
その真摯な生きざまに、ともに笑って泣いて、学び、いくつになっても夢をもち、成長していきたいと思わせていただくのです。



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