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Channel: 天晴れ! HK伝説 ~氷川きよしさんに出会えた奇跡に感謝!~
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”最高の今日を、皆さん、ありがとうございます” ときよしさんはデビュー記念日の夜におっしゃったのです。

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「17年前の今日、それまではこの世に存在しなかった”氷川きよし”という歌手が誕生しました。
デビュー当日はなにもしていなくて、家にいました。
その1年前からキャンペーンをしていましたが、今日レコードがでるんだなあって思って。
それまでは普通の生活をしていたのが、パッとかわって。
もう、”山田清志”じゃなくて、”氷川きよし”としてしかみられなくなって、僕自身が”氷川きよし”についていくのが精いっぱいでした。
求められる勝手につくられるイメージがあって、そのことがありがたくもあり、でも、僕はこんなんじゃないという思いもありました。
とにかくがむしゃらでした~。
ファンクラブは10人くらいからのスタートでした。
最初はふたりだったんです。ミツモリさんというご夫妻が僕の歌を聴いてくださってキャンペーンにかけつけてくださって、応援してくださうようになって、それで、”早くファンクラブをたちあげてください”っていってくださったんです。
コンサートツアーも16年めになりますが、最初の年は160公演したんです。正直、しんどいときもありました。コンサートをしながら座長公演を年2回した年もありましたね~。
ぼんとうに、働きましたぁ~」
きよしさんは、デビュー記念日である2月2日の夜の部で、「ちょいときまぐれ渡り鳥」を歌唱されたあとのラストトークで、これまでの足跡をふりかえって、そこまで一気におっしゃると、ひと息つがれたかと思います。

「それで、のどを痛めまして。だましだまし唄っていました。
のどにポリープができて10年くらい。
笑顔で唄っていましたけど、そのストレスで、じんましんができて」
きよしさんは、そこで、”苦しんだり、つらかった”という言葉は、ぐっとのみこまれておっしゃらなかったかと思いますが、それはわたしなどには想像もできない壮絶な日々だったのだと、かえってその様子にその思いを強くしたのです。
先日の「氷川きよし節」(文化放送)でも、のどの手術のことを、”あえていわなくてもよかったのかもしれないけど、スタッフとタイミングを相談して”、「徹子の部屋」で公表してくださったことをお話しされていましたね。

「(その心配もなくなって)今、唄えることが幸せです。
僕、今が生きてきていちばん幸せです。
今日のこの日がいちばん幸せ!
最高の今日を、皆さん、ありがとうございます」
そうおっしゃってから、深々と一礼されたきよしさんに、”きよしコール”がおこりました。
きよしさんは、
「ありがとうございます」
「うわあ、どうしよう」
「すみません」
と、そんな言葉のあと、
とびきりの笑顔で、
「み~な~さんっ!、み~な~さんっ!」
と、”皆さんコール”を重ねてくださり、途中、”ほいっ!”と、ご自身で合いの手までいれてくださったのです。

そして、これから唄う「男の絶唱」について、
「3月7日に、1年ぶりの新曲を発売させていただきます。
タイトルは『男の絶唱』です。
今年の”大勝負曲”です。
僕も泥に咲く水連のように生きていきたいと思います」
そうおっしゃると、「男の絶唱」のイントロがながれ、きよしさんは下手に移動され、ワンコーラス目を唄いだされたのです。

イメージ 1
※この日は全身ボードにメッセージを書いてくださっていました。
後半でメッセージのみの拡大画像もアップしますね。


きよしさんは2コーラス目を上手側に移動して歌唱されていたのですが、すでにこみあげるものがあったのでしょか。自身を鼓舞するかのように、いっそう力強い歌声を聴かせてくださったのです。
そして、センターで3コーラス目を唄いだされたときのことでした。
あふれる涙をとめることができず、そして、その思いがこぼれだして、きよしさんはいよいよ絶句されて...。
しばし演奏だけがこだましたのです。
でも、そのむこうから、きよしさんの心の歌声を感じて、その熱い熱い思いが痛いほどつたわってきたのでした。
わたしもまた泣いていました。
そして、”最高の今日を、皆さん、ありがとうございます”とおっしゃったきよしさんの言葉にこめてくださった深い思いをあらためて感じて、こちらこそ”最高の今日を、きよしさん、ありがとうございます”と心のなかでいわせていただいたのです。
「男の絶唱」の後半をふたたび勇壮に歌唱されたきよしさんは、ステージが暗転すると、拍手にかき消されてはっきりとは聞きとれなかったのですが、小さな声で”すみませんでした”とおっしゃっていたかと思います。

「白雲の城」、アンコールでの1曲めの「イヨマンテの夜」の歌唱に身震いするほどの感動を味わわせていただきました。

イメージ 2
※メッセージ部分のみ写メしました。
きよしさんの筆致があまりにも素敵に思えたのです。ぜひ拡大してご覧くださいませ。


さて、皆さま、デビュー記念日2月2日に、中野サンプラザホールで開催されたコンサート・夜の部の後半を先に書かせていただきました。
早く早く、きよしさんの思いをおつたえしたかったのですが、わたしもまた感動のあまり、言葉がなかなかでてこず、帰宅してすぐにPCに向かう気持ちになれなかったのです。
少し、心をおちつかせて書いています。

オープニングでは、
「おかげさまで17歳になりました。
22歳の若さでデビューして右も左もわからない芸能界で、皆さんに支えていただいて、唄ってくることができ、今日の日を迎えることができました。
心から感謝の気持ちでいっぱいです。
今日は、この感謝の思いをひと節ひと節にこめて唄わせていただきます」
と、ご挨拶されたきよしさん、
「みれん心」では、ステージ上段からステップをおりてくる演出ですが、2,3段目までおりてくると、ぴょ~ん!と、ジャンプされてステージに着地され、嬉しさを全身であらわしておられたのです(喜)。

司会者の西寄ひがしさんをまじえてのトークでは、
「ほんとうに今がいちばん。
いい40代を迎えたいと思います」
とおっしゃったきよしさんに、
西寄さんは
「今日からデビュー18年目に突入ですね、おめでとうございます」
と祝されると、”せえの!”と音頭をとってくださり、
”おめでとう~”
とみなで声をそろえていわせていただいたのです。
きよしさんは、
「ありがとうございます~」
とお礼をおっしゃると、大きな投げキッス!
でも、”それでは足りないなあ”という様子で胸に両手をあて、ハートをとばしてくださったので、そんなきよしさんの優しいお気持ちが嬉しくてなりませんでした。

「この日は”氷川きよし”という存在が誕生した日です。
皆さんと一緒に”皆さんの氷川きよし”として、一緒につくらせていただいてきたと思っています。
これから演歌歌手として、私(わたくし)らしく生きていきたいと思います」
と、きっぱりとおっしゃってから、

「いろんな歌を唄いたいですよね~。
”夫婦もの”とか。
でも説得力がないなって思って...。
僕にもオリジナルに”夫婦もの”あるんですよ。わかりますか?」
と、そんなふうに問われたでしょうか。
もちろん、”「惚れて一生」!”と、声をそろえての返答となったのですが、すっかり気をよくされたきよしさん、「惚れて一生」をアカペラで1コーラスすべて唄ってくださったのです。
そして、
「新曲の『男の絶唱』は”決意もの”でしょ。あと、”ホラーもの”もある」
とのきよしさんの言葉に、西寄さんが、”ホラーってどの曲?”というようにきよしさんのほうをみると、
「『ハロウィン音頭』!」
と意気揚々とおっしゃり、またもアカペラでさわりを唄ってくださったのでした。


すでに開演前にロビーに展示されていたのですが、ここであらためて、デビューまる17年を迎えた思いをしたためた書をステージで披露してくださいました。

イメージ 3


「感謝を忘れずに生きていきたいです。
”ありがとうございました”という思いをもって、これからも歩んでいきたいです」
とあらためてお礼をおっしゃると、演奏のHKピュアリバーの皆さんをきよしさん自らがこの日も紹介され、ツアー初年度からリーダーとしてきよしさんを支えてくださってきた藤林さんに、
「ツアーがスタートしたとき、藤林さんはおいくつだったんですか?」
とおたずねになったのです。
”38歳”
とのお答えに、
「今の僕と同じくらいの年齢だったんですね~」
と感慨深げなきよしさんでした。

あらためて今年の抱負を西寄さんが質問されると、
「ちょっとこうね、テッ、テッ、テッ、テッ、テッ!」
と、あがっていく様子を効果音つきで表現され、あえて、”ヒューッ!”とさがって笑いを誘ったあと、
「まあ、普通でいいですよ~」
と、無欲なきよしさんに、かえって余裕を感じたのですが、そのあと、
「皆さんが幸せだったら、僕は幸せです!」
とおっしゃったのです。

そして、ひばりさんの生誕記念コンサート(4月5日に東京ドームで開催)への出演を西寄さんがインフォメーションされると、
「(ご子息の)和也さんにひばりさんのこと、僕、根掘り葉掘りきいちゃって(笑)。
和也さんが8歳のとき、ひばりさんが帰ってきたとき、かぶりものをしてたんですって。怖いから逃げたら部屋のなかを追いかけられたって。僕、そういうおとうさんになりたいなあって思いますね」
と。

そして、「ドラゴンボール超」のオープニング曲「限界突破×サバイバー」を歌唱されている話題になると、
野沢雅子さんの声マネで、
「嬉しくて! オス、オラ、悟空 かめはめ波~」
と(笑)。
みごとな声優ぶりに、
「声優もいけるじゃなですか」と西寄さんがおっしゃると、
「いやぁ、僕、そんなの無理」
とますますアニメ調(笑)。
「めっちゃくちゃやる気じゃないですかっ!」
との西寄さんのツッコミに、
「でも噛んじゃうから、やらない」
と、きよしさんはおっしゃったでしょうか(笑)。
西寄さんは、付き合いきれないという様子で、
「アピールすごいですねっ!」
と客席にむかってつぶやかれたのでした。

イメージ 4
※この表示板、愛しく思えませんか?


そして、ここで”ふれあいコーナー”になりました。
おひとりめの当選者は2階の最後列におすわりの生まれも育ちも上野の方。
きよしさんの配信曲を、しっかりダウンロードされているとのことでした。
ご主人が他界されて悲しんでいたとき、娘さんが、”橋幸夫さんの「潮来笠」を上手に唄う子がいるよ~”と、きよしさんの存在をおしえてくれて、以後、ずっとまる17年ファン。
”亡くなって3年くらいはさびしかったですが、あとはきよし君がいてくれるので。毎日、元気になれる源です”
とおっしゃっていたでしょうか。

おふたりめは1階22列におすわりの方、きよしさんの大ファンのお母さまの付き添いではじめてきよしさんのコンサートにいらしたということでした。
学校関係のお仕事をされているそうで、明晰なトークにお話がはずみました。
”2月2日は世間では、”夫婦の日”や”ツインテールの日”といわれていますが、わたしには母の影響で、”氷川きよしさんのデビュー記念日”と、お書きくださっていたかと思います。
はじめて生でお逢いしたきよしさんの印象を聞かれると、
”こんなに面白い人だとは思わなかったです”とお答えに(笑)。
場内の大爆笑に、”僕はクール系なんだけどぉ”と気どってみせたきよしさん。
「こんなにモノマネやっていて、なにいってるんですかっ」
と、即座に西寄さんからツッコミがはいったのでした。

このあと、モノローグ付きでオリジナル曲を歌唱してくださいますが、
あまりにもりあがってしまったため、西寄さんが袖に戻られても、きよしさんはステージの上でしばし沈黙。
「すみません。ちょっとお芝居をするので、今、楽しすぎて」
と、スイッチングが難しいことを説明されると、
「僕、お辞儀します。
顔をあげたら、歌の世界にはいっています」
と、そんなふうにおっしゃったでしょうか。

きよしさんは、一礼されると、
「逢えてよかった」の主人公の思いを描いた台詞をモノローグで語られて、唄ってくださったのでした。


ここまで駆け足ですが、前後しつつ、コンサートの様子を書きとめてみました。
アンコールの最後の1曲「きよしのズンドコ節」では、きよしさんが”よろしかったらお立ちください”とおっしゃる間もなく、イントロが鳴りはじめるやいなやほぼオールステンディング状態になり、きよしさんが客席にマイクを向けてくださるたびに、大合唱がまきおこったのです。


きよしさん、忘れえぬ感動をありがとうございました。
あなたと出逢うことができ、こうしてファンになり、ともに同じ時代を生きているそのことに、言いあらわしようのない喜びと幸せを感じて。
あなたにただ、ただ、感謝します。
この日、あなたが聴かせてくださった「男の絶唱」での魂の歌声をわたしは生涯忘れません。



※さて、以下は余談。
わたしの思い出話です。
2010年の秋の”FC限定コンサート”でのこと。

きよしさんは、もし東京に上京せず福岡にいたら今頃自分はどうしていただろう? と考えることがあるのだとお話しされたのです。
「カラオケ教室の先生になっていただろうか?
もう結婚していただろうか?
あれこれ考えてはみますが想像もつきません」
そうおっしゃって静かに微笑まれた様子に、あまりにも劇的な人生を歩むことになったきよしさんの一人の人間としての素顔を垣間見て、じんときてしまったのでした。
そんなきよしさんが、また数年を経て、゛命ある限り唄う゛と、決意された今、その雄姿がますます輝き眩しく思えます。

そして、こちらは、「ときめきのルンバ」のときに、アップさせていただいたことがある、きよしさんのサイン色紙の画像です。
2月1日の夜の部で、”夜キャン”の話題をされたとき、わたしにはこの色紙が思いうかんだのです。
イメージ 5


きよしさんのサインの入った「箱根八里の半次郎」の色紙ですが、右には”長束さん江”と書かれていますが、わたしは”長束さん”ではありませんし、”長束さん”のことをまったくしらないのです。

では、なぜこの色紙を持っているのかといいますと、ある時、たまたま探し物があってオークションを細かくチェックしていたのですが、その時、宛名の入ったきよしさんの「箱根八里の半次郎」の色紙が複数、出品されているのを目にしました。
出品者がファンの方にということで安価でそれもオークション形式ではなく提示されている金額で落札できる方法で出品されていたこともあり、なんだかとても気になったのです。
それでわたしは、自分とはまったく関係のない”長束さん”あての色紙を譲っていただくことにして、落札して出品者の方と連絡をとってみたところ、その方は大阪の守口市でスナックを経営されていたのですが事情があって閉店することになり、そのためいろいろな物を処分しなければならなくなったということでした。
その中にきよしさんがデビュー時にキャンペーンにいらしたときの色紙があったのです。
来店時に、゛お名前を教えていただければ、お名前を入れた色紙を後日お届けします゛ということになって、後日、きちんとお名前の入った色紙が届けられましたが、その時来店されていただけで閉店する数年の間に結局いらっしゃることのなかったお客様の色紙が10枚ほど。
処分するのも申し訳なく、宛名が入っていてもかまわないというファンの方がいらっしゃればという思いで出品されたということでした。

きよしさんが一生懸命サインした色紙...。
お店の方も、そのお客様がいらした時に渡そうと大切に保管されていたので、色紙はとてもきれいな状態でしたが、その色紙を眺めて、私には胸にこみあげるものがありました。
これまでもなんどかきよしさんご自身がキャンペーンの思い出として、団地の一室でおこなわれているカラオケ教室に行って唄わせていただいて、お漬物をすすめられたという心あたたまるエピソードや、金沢でお客さんがひとりもいなくなってしまったエピソードを話してくださったことがありましたね。
私は金沢でのエピソードを新宿コマ劇場での座長公演のときにはじめて聞いて、涙したことがありましたが、この色紙を手にしたことで、私にはきよしさんのキャンペーンの様子が、とても生々しく感じられたのです。
たとえどんなに小さな場所であっても、名前も顔も知られていない新人歌手が突然訪れても唄わせてなどいただけません。
それはやはりそれぞれの地の興行師やプロモーターの方が、間に入って唄う機会をつくってくださっているのですよね。
きよしさんは全国さまざまな場所をまわって、語ることもできないご苦労も多々あったのではないかと思いますが、どんな機会、場所であっても感謝の気持ちをもって、誠実に歌ってこられたのだと思います。
だからこそ、今日があるのでしょう。
その歌声で聴く人を魅了し、また、関わったひとりひとりのスタッフの心をとらえ、゛氷川きよしのためならば゛と、皆をどんどんやる気にさせていったのだと、わたしはそんなふうに思っているのです。

「箱根八里の半次郎」が大ヒットした頃、何かのインタビューで、
゛こんなに忙しいのに、どうして、そんなふうにいつも一生懸命でいられるの?゛と聞かれて、
「どんなに小さな記事でも、もしその記事を読んで、僕の歌を聴いてみようと思う人がおひとりでもいるかもしれないと思ったら、どんな仕事もおろそかにはできません」
きよしさんは、そう答えていました。
まだきよしさんは23歳になったばかりだったと思います。


やっぱり、どんなときもきよしさんには教えられ、励まされるばかりです。




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