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Channel: 天晴れ! HK伝説 ~氷川きよしさんに出会えた奇跡に感謝!~
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新歌舞伎座へいってまいります。 更新中に「男の絶唱」の発売記念イベントのおしらせとジャケ写がアップされました(嬉)

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こんばんは。
仕事でバタバタしていたら日付がかわって8月23日。
昨夜の「歌う!SHOW学校」、ご覧になりましたか?
出演者の皆さまの熱演&熱唱、楽しくって、素晴らしかったですね。
公開収録に参加させていただいてはいましたが、放送であらためて、きよしさんの歌唱にとりわけ惹きこまれ、オリジナルより1音高いハイキーの「哀愁列車」は放送でも聴いても、最高!
「男の絶唱」の颯爽として素敵でした。

さあ、わたし、今日は新歌舞伎座へいってまいります。
かつてなんばにあった新歌舞伎座にいったのは、2002年のクリスマスに「きよしこの夜 i n 新歌舞伎座」を観にいったのが最初でした。
正直、大阪に新歌舞伎座があるということもそのときはじめてしったのです。
その後、「草笛の音次郎」、「きよしの森の石松」と2度の座長公演にうかがったのですが、老朽化もあって2009年6月に閉館して、翌2010年9月に現在の上本町YUFURAにオープンしたのでした。

移転後の新歌舞伎座でのきよしさんの公演は今回がはじめてになるので、どんなものになるのかわくわくしているのですが、先日の宇治市文化センターでのコンサートでも、この日限りの新歌舞伎座ならではのコンサートになることをおしらせくださり、きよしさん自身もとても楽しみにされている様子でした。

ファンクラブでの抽選に昼夜とも落選してしまい、一度はあきらめたのですが、昼夜の1枚は譲ってくださる方がいて、もう1枚は一般電話予約の日に仕事先に移動しながら腰痛をこらえて何度もリダイヤルして、なんとかチケットがとれ、昼夜参加できることになったのです。

ちなみに昼夜のいずれかはこのお席。
チケットをご覧くださいませ。

イメージ 1

”3階立見X列”と印刷されてますでしょ。
そう、昼夜いずれかは立見なのですが、それでも電話がやっとつながってとれたので、嬉しくって!
そして、腰が回復しなければ立見はとても無理なので、あきらめることになるかもしれないと覚悟していましたが、なんとかがんばれそうです。
でも、昼夜いずれかは1階席でみることができるので、どうか心配しないでくださいね。



そして、以下はとりとめのないひとりごとですが、お読みいただけたら嬉しいです。
2014年10月21日に宇治市文化センターではじめたおこなわれたきよしさんのコンサートは、その月の7日、8日の両日、日本武道館で”デビュー15周年記念コンサート”を大成功に終わらて以来初ということで、20周へ年の船出ともいうべき力みなぎるものになりました。
熱唱&”ハッピートーク”で、昼の部が感動のうちに幕を閉じ、迎えた夜の部では客席にびっくりするくらいのたくさんのボードが揺らめいていて...。
きよしさんはひとつひとつをじっくりと、嬉しそうにご覧になっていて、いつも台湾からお越しくださっているファンの方にもすぐに気づかれお礼をおっしゃられると、その流れで、日本の魅力をもっともっと知っていただきたいというような話題になったのです。
「6年後にオリンピックもありますから」
とおっしゃるのを横でお聞きになっていらした西寄さんが、
”東京オリンピックで、”氷川きよし”の音頭が聴きたいですよね”
というようなことを客席に問われると、大きな賛同の拍手と歓声が響いたのです。
「嬉しいですね。ありがたいですね。僕も元気でがんばりたいです。
皆さんも命を大切にして、元気でいてくださいね。
命はどんな宇宙の財宝より尊いものですから。命あることに感謝して、僕はいつも笑顔でいたいです。
人を憎んだり、恨んだりなんてしたくありません。
そういう思いもすべて喜びに変えて、生きていきたいです。
これまでの人生で、僕、恨んだり、憎んだりしたことありませんよ。 
大事な人生のなかで(これからも)恨んだり、憎んだりなんてしません。
感謝です」
 
このとき、わたしは、きよしさんの唄ってくださる「愛燦燦」で感じていたことを、きよしさんがすべて言葉にして語ってくださっているように感じて、涙がこぼれそうになりました。
わたしは狭量なので、正直をいえばまだまだ許せないことを抱えて生きています。
ときにそのことを思い返してまだ涙が出てしまうような自分がまた許せなくて...。
でもこの日、昼夜、聴かせていただいたきよしさんの「愛燦燦」の歌唱と、唄い終えてのこのときの言葉に、
今日、許せなくてもいいじゃない。
明日も許せなくたっていい。
いつなのかはわからないけど、いつか、きよしさんのような境地になりたい。
それがたとえ遠い未来になってしまったとしても、いつかそうなれればいいんだよね。
きよしさんの、このときの言葉を聞いていて、そう思うことができたら不思議と心が晴れやかになれたのでした。
 
あれから2年以上が経った今、わたし、一点の曇もないのです。
あの日、宇治の地で自問自答していたわたしでしたが、今は、ただ晴れやかな思いしかありません。
宇治文化センターで3年ぶり2度めのコンサートを開催されるおしらせがきたとき、あの日、宇治で抱いた、あの時のわたしにとってはかなり前向きな思いがよみがえり、あらためて”氷川きよし”の歌唱と存在、その輝きが、すべてを洗い流してくださったことを感じたのです。
それで、今年、もう一度宇治の地で、きよしさんの歌声を聴かせていただきくなり、コンサートに申し込んだのでした。

このことを皆さまにお伝えしたいと思ったのですが、なかなか思いがまとまらなくて今日までお時間いただきました。
ごめんなさい。

以下は2014年のコンサートのブログに書いた記事をもとにふり返ってみますね。
 
 

「あのブルーのセーターを着た、あの時が、氷川きよしの誕生でしたね」
2014年10月21日に宇治市文化センターで開催されたコンサートの夜の部で、15周年を記念して開催された衣裳展の話題になると、きよしさんはそうおっしゃいました。
選び抜かれた約80着の衣裳は、どの衣裳も素晴らしいけれど、そこに事務所のオーディションで、長良会長(当時は社長)の前で、水森英夫先生のギター伴奏で「雪の渡り鳥」などの懐メロを数曲唄われたときにお召しになっていたセーターを飾られていたことに、司会の西寄ひがしさんが、”ああこれが氷川きよしなのだ”と感動されたことをお話しされて。
その言葉を受けてのことだったのですが、あのロイヤルブルーのセーターに、白いGパンをはいていらしたのだそうです。このときのきよしさんの言葉が、心に深くしみいったのです。

長良会長ときよしさんが初めて会ったのは1999年2月25日のことだったそうです。
それはのちのインタビューで長良会長ご自身が、
”忘れもしません。1999年2月25日。私が初めてきよしと会った時、着ていた洋服は青いセーターだった。後から聞いた話ですが、あのセーターは私と会うために、なけなしのカネをはたいて買ったそうです。”
とお話しされていました。
わたしは、2004年に銀座三越で開催された「氷川きよし デビュー5周年記念感謝展」でこのセーターを拝見して、当時でさえそのセーターを大切に持っていらした、きよしさんの真心に感動したのですが、それからさらに10年を経ているのです。
長良会長に初めて会った日、氷川きよしがこの世に生まれる最初の一歩を歩み出したその瞬間に、きよしさんがお召しになっていたセーターですから、氷川きよしとしての”最初の衣裳”が、このセーターなのですね。
 
10月7日、8日の両日、日本武道館で”デビュー15周年記念コンサート”を開催し、大成功に終わらせたきよしさん。
この日のコンサートはそれ以来初といことで、20周へ年の船出ともいうべき力みなぎるものになったのです。
夜の部で「伝言~メッセージ~」を、
”♪あなたに伝えたい「愛してる」”
とせつなさを募らせながら、しっとりと唄ってくださったきよしさんの歌唱に、われを忘れて、ふうとため息がこぼれたのです。
きよしさんもその余韻に身をひたしておられる様子でしたが、余韻が引いていくと、照れ臭そうに笑って、
「すごくあったかくて、唄っていて胸がきゅっとくる歌ですね。
でも、僕、唄っていて恥ずかしいんですよ。
子どもの頃から、両親の前で、”好きだ”とか”愛してる”とか恥ずかしくて唄えなかったんですけど。
そういうことって、大人になっても変わりませんね。
恥ずかしい…」
自分の心情をダイレクトに吐露するようなポップスを唄うことが恥ずかしくて、それで演歌の道を選んだのだということまで、おっしゃってから、ほんと、今日は困っちゃったなあというふうに苦笑されたのでした。
 
きよしさん、あんなにロマンチックに唄ってくださったのに、唄っていてそんなに恥ずかしかったの?
そんなこと言われたら、わたし...。

以前、”女性の皆さんは男性のどんなところに惚れるんですか?”と、ある日の“ふれあいコーナー”で、きよしさんが客席におたずねになったことがありましたが、
きよしさん、こんなときなんですよ。
ね、皆さま。
誰か、きよしさんにおしえてさしあげてくださらないかしら?
なんて(笑)。
  
オープニングトークで、
「前日から緊張していました。
今日は朝6時に起きて、飛行機で、あっ! じゃなくて、新幹線に乗ってきました。
久々に京都駅に降り立ったという気がして、京都の雰囲気を感じて、やっぱりいいなあと思いましたけど、これから紅葉の季節ですよね。
紅葉がアレして...」
と、すでにお得意の(?)”アレ”が飛び出したのでした(笑)。
 
「今年は年の初めから、15周年記念コンサートのことを考えてやってきたので、終わって、正直、抜け殻になっているような感じでしたが、宇治に来て、皆さんに元気をいただきました。
いつも自分は力不足で、ほんとうに何もできないですけれども...」
そうおっしゃるきよしさんに、客席から大きな拍手と歓声が起こったのです。
するときよしさんは笑顔で大きくうなずかれて、
「新たなスタート、明日への道という感じですね。
皆さんに喜んでいただきたいという思いで唄ってきましたから、これからも皆さんに喜んでいただけるような、心の奥底に届く歌を唄っていきたいと思います」
と力強くおっしゃってくださいました。
  
”ふれあいコーナー”で、武道館でのコンサートの大成功を称えてくださったかたが、”そのあと、休むことができましたか?”と質問を添えてくださっていたので、きよしさんは釣りにいった話をしてくださいました。
「コンサートが終わったあと、釣りに行きました。
東京の海ですが、友人7人を誘って漁船に乗って。
魚がいっぱい釣れたんです。6時からスタートして午後1時まででしたけど、スタートして2時間経っても、僕だけ何も釣れなかったんです。
それで場所を代わってもらったんですけど、僕は釣れなくて、僕がいた場所に移った友人が釣れたんです。
そこまで自分だけ釣れないと、正直気分はよくないですよね。
でもそのときは、僕が企画して皆を誘ったので、ぐっとその気持ちを抑えて笑顔でいたんです。
皆も、”もう少ししたら釣れるよー”って言ってくれていたんです。
そうしたら、”キターッ!”て、やっとなったんです。
でも、隣の友人の釣竿に引っかかっただけだったんです。
サバ、タイ、シイラといった魚がたくさん釣れたので、それを焼いて食べて。
おいしかったです」
 
ふだん忙しくされているきよしさん、日の光や潮風を思い切り浴びてみたかったそうで、自ら企画&セッティングして、職種も様々なお友達を招待されたのだそうです。
西寄さんに、たくさんのお魚が釣れた様子などの写メをきよしさんが送られたということでしたが、きよしさんが一匹も釣れなかったことは、この話題になるまでご存知なかったそうです(笑)。
”いいじゃないですか。コンサートのネタになったんですから”
西寄さんが即座にフォローしてくださいました。
そうですね、ひとりだけお魚が釣れなかったきよしさん、どんな様子だったのかしら? と想像して、愛しくなってしまいます。
きよしさんは、”無職37歳になって”お休みすることができたとおっしゃっていましたが、そんな思いになるほどリラックス&リセットすることができたのでしょうね。

そういえば夜の部ではこんなこともありました。
“この秋に何をたべたいですか?”という話題になると、
“きよしくん!”という声が(汗)。
すかさず西寄さんが、
「きよしは食べられません。
食べちゃいたいというお気持ちはわかりますが(笑)。
氷川きよしは皆のものでございます」
と(笑)。
ところが横で聞いていらしたきよしさんは、
「ありがたいですね。
僕なんかで良かったら食べていただいてもいいんですけど」
と申し訳なさそうにおっしゃったのです。
そして、
「デビューして15年。
皆さんが作ってくださった道です。
これからも皆さんに僕の歌を聴いて楽しんでいただけたらと思います」
と結ばれたのでした。

昼夜とも“きよしコール”が起こり、昼の部ではその場で一回転!
新曲「ちょいときまぐれ渡り鳥」への思いを言葉にされ、
「僕は富士山のような人になりたいと思うんです。富士山のように寛大で、何でも受け止められるような人に。
そんな人になりたいという思いを込めて『ちょいときまぐれ渡り鳥』を唄っています。
年末までこの歌でがんばります。
皆さん、応援よろしくお願いします」
きよしさんは、そうおっしゃって、深々と頭を下げられたのでした。

アンコールで「陽春」を、唄われたあと、「きよしのソーラン節」をワンコーラス歌唱したところでストップして、新曲「ちょいときまぐれ渡り鳥」を披露するという構成ですが、久々のコンサートということで、昼の部ではツーコーラス歌唱するつもりだったきよしさん、そのことを言葉にされながら苦笑されていました。
そして、夜の部でも、
「コンサートは久しぶりなので、ああ、そうかこういう流れだったなとか、ところどころ思ったりしておりました(笑)」
とおっしゃっていました。
わたしは、そんなきよしさんの様子に、どれほど日本武道館でのデビュー15周年記念コンサートに全身全霊をかたむけ、そのすべてを込められていたのか、そしてそのコンサートを大成功に終えたあと、しばしひとりの人間に戻ってリラックスされたのかを感じたのでした。


さらにとりとめなく書きますと、
15周年では、山野楽器さんが銀座本店の正面にきよしさんのジャケットを飾ってくださっていました。
 
掲載期間の後半に写メするつもりでいたのですが、
夜間にしか見に行かれず撮影環境がよくなかったので、
これはコロムビアさんの画像です。
 
 
ちなみにこちらは10周年。

11月6日の「月刊・氷川きよし」(デイリースポーツ)に、15周年記念コンサートを紙上再現してくださったのですがそのなかで、
「ファンの方に支えていただいて今がある。携わる皆さんに支えていただいて今日がある。
1人の力では何もできない。多くの方が氷川きよしを支えてくださっている。
感謝の気持ちでいっぱいです。これまでを振り返っても、思い出はファンの皆さんとのことです。
どんな時も僕を見守ってくださり、僕の歌を愛してくださり。だからここまで歌ってこられたのです」
ときよしさんの心境が書かれていました。 
何度も何度も読み返しては胸熱くなり、その言葉を、そして込められた思いを抱きしめたくなったのです。
 
きよしさんのデビュー15周年記念コンサートが大晴天&大成功に終わって、わたしもひとりのファンとしていろいろな思いを抱きました。

もともと富山旅行を予定していたので、10月28日に高岡市民会館で開催されるコンサートを申し込んでいたのですが、そのあと、宇治市文化センターでのコンサート(10月21日開催)のご案内をいただいて、15周年記念コンサートを終えたきよしさんが、新たな第1歩を踏み出されるその日に居合わさせていただいて、きよしさんの雄姿をこの目で見たいという思いがわいて...。
”京都なら日帰りできる”ということを、自分への言い訳(?)にして、前後の仕事を繰り合わせて参加させていただいたのです。

久々のコンサートに緊張されているとおっしゃるきよしさんでしたが、ひとまわりもふたまわりも包容力が増していることを感じて、ファンとしてその雄姿が誇らしく、そして幸せを感じたのでした。
そのことはレポートに書かせていただきましたが、それからまた、きよしさんのことを考えて...。
 
15周年ということでわたしが言いたいことは、ある意味、この一言に尽きるかもしれないと思ったのです。
それは、わたしは”氷川きよし”になれないということ。
きよしさんの肉体にわたしの魂が宿ったとしても、わたしは”氷川きよし”に絶対になれなかったということ。
あの肉体に、あの魂が宿ったからこそ、“氷川きよし”が、この世に生まれ、今日もまぶしいほどに輝いていてくださるのだということを。
今さらと思われるかもしれませんが、でも、あらためて、そうはっきりと思ったのです。
 
デビューする前は、歌手を夢見るひとりの青年だったきよしさん。
苦労と挫折を重ねて、長良じゅん会長(当時は社長)と出会ってデビューした途端に大ブレーク。
長良会長は、”売れるか、まったくダメかのどちらかだと思った”と、のちの取材でおっしゃっていましたがキャンペーンが始まると前代未聞の大反響になり、名付け親の北野武監督は、”こんなに早く売れた人、見たことない”と語っておられました。
ほんとうにそうですよね。

そんな”氷川きよし”について、きよしさんご自身も、ラジオ番組で(その後は折々に)、
「一気に走り出した”氷川きよし”に追いつけないと感じたこともあった」
とお話ししてくださったことがありましたが、その後1日も休むことなくひたむきに努力され、いつしかぴったりと追いつき、今は真の意味で一心同体でいらっしゃることを、ファンとして感じています。 
 
これまで、わたしは、ほんとうに、きよしさんのことを、見て、見て、見て...。
見つめさせていただいてきました。
その歌を聴いて、聴いて、聴いて...。
 
と、こうして書いていて思い起こされるのは2004年の夏のこと。
炎天下のなか、銀座三越の屋上で開催されたイベントでのこと。
屋根のない櫓の上でスーツで新曲の「番場の忠太郎」を歌唱されたきよしさんの姿が鮮やかにうかびます。
デビュー以来、加速をますハードスケジュールの日々。
けれども疲れも暑さも微塵も感じていないかのような堂々とした歌唱を披露され、ハイタッチ会となったのですが”ハイタッチ”のはずが、きよしさんがひとりひとりの手を握ってくださったので、握手以上に素敵な体験になり、時間もその分相当に押してしまったようでした。
あとになって、その日、お母さまが大変な手術をされ、きよしさんが大きな心労を抱えていらしたことを知らされたとき、わたしは涙がとまりませんでした。
ああ、この人に一生ついて行こう。
心の底からそう思った瞬間でした。 
 
そしてその翌日に開催された八王子市民会館でのコンサートの夜の部でのきよしさんのことも、忘れることはできません。
そのときのコンサートの最後の曲だった「玄海竜虎伝」まで唄い終えると、きよしさんは袴姿のままステージに両膝をついてしまいました。
でも少しも揺るぎのない見事な歌唱でしたし、きよしさんは笑っておられ、そのあともアンコール曲を唄われて幕が降りたので、その身に起こっていた異変を、きよしさんはわたしたちに気取らせもしなかったのです。
わたしは、そのときのきよしさんの体調が極限状態にあり、命がけの歌唱だったことを、翌日の渋谷公会堂でのコンサートが延期になって、初めて知りました。
 
ほんとうに、真にプロフェッショナルであるということはなんて厳しく壮絶なものなのでしょう。
それにしても、あの内気で心優しいきよしさんが、どうしてそこまでがんばれるのでしょう?
きよしさんを何が支えているのでしょう?
わたしは、ずっとずっと考えていました。

そのことは少し前の記事に書かせていただきましたが、
それは”愛”にほかならないのだと、きよしさんを見つめていて、いつしか感じるようになったのです。
自分を愛してくれる人たちに喜んでほしい、笑っていてほしい。
自分のことで絶対に心配をかけたくない。
その思いが、 きよしさんを支えているのではないかと。
そしてその思いこそが”愛”なのではないかと。
きよしさんに確かめるすべはありませんが、でもそうなのではないかなと感じているのです。
 
 
「日々感謝して、1人1人の方を大切にできる人に成長したい。
歌で伝えていくことが一番大切だと思います。
この命ある限り歌っていきたい」
10月31日におこなわれたニューアルバム「演歌名曲コレクション20~ちょいときまぐれ渡り鳥~」のリリース取材会でのきよしさんの言葉。
11月1日の日刊スポーツに掲載されていました。
その取材会の報告記事には、
「つらい思いもしましたけど、ずっと見てくれている人たちはわかってくれているんだなって、感謝しました」
 というきよしさんの真心こもった言葉も、きちんと載せてくださっていました。
わたしはこの言葉を目にして、取材会に参加された記者の方たちにも、きよしさんの思いがしっかりと伝わっていることを感じたのです。
そして、その思いをその記事を読むであろう、きよしさんのファンに、できる限りダイレクトに伝えてあげたいと思ってくださったであろうことも。
そのときは新聞を抱きしめました。
そして、これこそが”氷川きよし”の真骨頂であることを再認識したのです。
きよしさんはデビューする前から、出会った人たちに誠心誠意を尽くして接し、ひとり、またひとりと、その歌声と笑顔を届けてきたのでした。
どんなにスターになってもひとりの人間であることを大切にしてきた、きよしさん。
その生き方はこれからも揺らぐことはないのでしょう。


※とりとめないままで申し訳ないのですが、自分では思いを言葉に出せて安堵ています。
2014年に抱いていた、悲しみも苦しみも、大きな恨みも、もう、きれいさっぱりありません。
それは”氷川きよし”の歌の力のおかげにほかなりません。
そして、「男の絶唱」を聴くほどに、泥に咲く睡蓮のように、すべてを喜びに変えて、感謝して生きていこいうという思いにさせていただいているのです。

皆さま、このブログを更新中に、日本コロムビアさんのHPで、「男の絶唱」の発売記念イベントのおしらせと、ジャケ写がアップされていました。
睡蓮があしらわれていて、素敵ですね。


こちらがDタイプで、カップリング曲は「酒場のひとりごと」です。

イメージ 2



こちらがEタイプでカップリング曲は「芝浜恋女房」です。

イメージ 3



こちらがFタイプで、カップリング曲は「片恋のサルサ」です。

イメージ 4


そして発売記念イベントは、
9月5日(火) 東京  池袋サンシャインシティ 噴水広場

9月8日(金)  名古屋 アスナル金山

9月10日(日) 大阪  もりのみやキューズモールBASE1F BASEパーク

の3か所で開催され、東京は15時から1回のみ。名古屋、大阪は2回開催されます。

詳細は、日本コロムビアさんのHPで確認してみてくださいね。

5日がイベントということは、9月の「うたコン」には何日に出演してくださのでしょう?
また予定がひとつ決まって、忙しい嬉しさです。




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