長良じゅん会長が旅立たれたのは2012年の5月3日(ハワイ現地時間5月2日)。
毎年、桜の季節がやってきて、夜桜演歌まつり」が終わると、この日が近づいてきていることを思うのです。
折々に長良会長のおこころを感じていますが、今日はあらためて、思い出深い談話を読み返したいと思いまして、ブログの過去の記事からふたつピックアップしてみました。
一緒にお読みいただけたら嬉しいです。
ひとつめは2012年4月21日放送された「徳光和夫 とくモリ! 歌謡サタデー」(ニッポン放送)での徳光さんとの対話です。
きよしさんは、”徳光和夫が語る! ビッグスター運命の出逢い・感動ストーリー”のコーナーにゲスト出演され、
”志から20年 氷川きよしが紡いだ演歌の糸”というタイトルで、きよしさんご自身が”運命の出逢い”について語っておられましたね。
※氷川きよしファンクラブ会員番号ゼロ番の会員賞。
手に持っておられるのはきよしさんです。
徳光さんが、――大トリを飾るのは氷川きよしさんです。まず氷川きよしの最初の出逢いはどなたなんですかね?とおききになりました。※以下、――は徳光さん、「 」はきよしさんです。「水森英夫先生ですね。高校3年生の時にNHKのBSの勝ち抜きの番組で水森先生にスカウトしていただいて。卒業間近だったんですけど。水森先生から名刺をいただいて。”演歌歌手になりたいの?” って言われて、”なりたいです”って(答えたら)、”名刺に自宅の番号が書いてあるから本当に歌手になる気があったら電話してこい”っていうふうに言われて 、”はい、電話します”って言ったんです。その番組は福岡大会だったんですけど、僕は準優勝だったんですよ。優勝するとNHKホールでの全国大会に出られるんですけど、出れなくて。出てみたかったなって思ってたんですけど、その日は家に帰って終わって。父と母に、”作曲家の先生から名刺をもらったから。どうしようかねー(とても優しい言い方でした)。声かけてもらって、こういうチャンスってなかなかないもんねー”って言ったら、(両親も)”ないよねー”って言うんですよ。僕、水森先生のこと知ってたんですよ。天童さんや伍代さんの曲を書かれていたので、素晴らしい先生なんだなあと思って。 父母に相談したら、そういう感じで”いいチャンスじゃない?”ってなったんで。ああ、行こうかなあー。東京に、行こうかなあ・・・と思ったんですけど、やっぱり今までずっと福岡に いた子供が右も左もわからない東京に行って、言葉も違いますし。博多弁と標準語ってだいぶ違うんですよ。ちょっと迷いがあったんですよ、歌手になりたいって気持ちはあるんですけど、福岡がやっぱり大好きだったんで離れたくなかったんですよ。母は”別に東京まで行かなくていいんじゃない”ってなったんですよ。一人息子なので心配だったでしょうね。 父には、”行ってこい。男だろう。一度しかない人生だから、おまえの可能性を試してみろ”って言われて。それで水森先生に電話して。2月くらいですかね。”上京させてもらっていいですかね?” て、ふるえながら。緊張して」――全部、自分でしたの? 高校生が?「全部、自分でしました。”先日はありがとうございました。 東京に上京したいんですけどどげんしたらいいんですかね?”って言うと、水森先生が”おれがちゃんとしてやるから”って言ってくださって。東京に行って家を探したり。やっぱり飛行機代ってお金がかかるじゃないですか。移動の資金も親戚や両親に工面してもらって。申し訳ないなと思いながら」――でももう飛行機に乗った時は、これで帰る時はやっぱり凱旋しなければって。「それは思いましたね」――あったのね。それはね。「はい。でももう帰れないっていうのも、あったんです。どっかに。もう海外くらいのレベルだったんです、東京が」――いいねえ(笑)。「羽田に着いてモノレールに乗るじゃないですか。 母が(出掛けに)手紙をくれてて。その手紙を飛行機の中で開けきれなかったんです。どんなこと書いているのかなと思って。羽田から浜松町までモノレールの中で一人で手紙を開けたんですよ。ばあーっとめくったらもう今まので思い出がいっぱい書いてあったんですよ。” 18年間、こんなことがあったね。保育園の時は清志は私の自転車の後ろに乗って”とか。共働きだったからいろいろな思い出を綴ってて。”これから一人で生活して、水道・光熱費も自分で払わないといけないし(笑)、食べ物も自分で自己管理して洗濯とかもちゃんと自分できできる(ように)”とか、いっぱい書いてあって...。最後に”18年間育てた母より”って書いてあったんですよ。そこを読んだ時に、ぶわーっと泣いちゃって。(モノレールの中だったので)周りに人はいるんですけど。僕って18年間母に育ててもらったんだーって、あらためて親のありがたみを感じたというか」―― すごいね、それは。と同時に、これは成功しなければって気持ちもあっただろうね。「ありました。やっぱり親のために。親という存在が離れてみて、ほんとうに大きな存在に見えたというか」――かわいがられていただろうしねえ。その手紙が原点かもしれないね。「そうですね。 今も大切にしています」――それで水森先生のところにたどりつくじゃないですか。そこからは門下生として毎日トレーニングを積んで?「 3年半レッスン時代がありまして。18歳から22歳まで。アルバイトを週に5日して、レッスンは週1回ある時もありましたし、ない時もありましたけど」――どういうアルバイトしていたの?「飲食店でやってました。ウェイターと厨房とか。やっぱり飲食店の方がまかないが出ると思って。お金があまりかからないだろうなと思って。自分も考えて飲食店に勤めまして」――給料どのくらいその頃は。 覚えてます?「12万円とかですかね」――じゃあもう家賃でいっぱいですよね、東京では。「そうですね。精一杯でしたねー」――そういう中で3年半修業するわけだ。 どこをどういうふうに水森先生は指導するんですかね。「歌のレッスンは 発声練習だけが1年間続きまして。2年目から 懐メロを覚えてレッスンしていくという感じだったんですよね。それと人として大切なこと(を教えていただいて)。 たとえばご馳走になった方に対して、翌日午前中にお礼の電話をして、”昨日はご馳走になりました。ありがとうございましたって言うようにしなさい”(というような)それまでやらなかったこと、大人の常識というかそういうことを教えていただきました。”遅刻をするな、10分前に来いとかそういうことを」――それは今でも守っているもんね。 きよし君はね。「はい(ちょっと口ごもって?笑)」――そこのところはね。だからやっぱり多くの人たちに好かれるっていいましょうかね、多くの人たちから支持を得ているっていう気がするんですけどね。「マネージャーさんが今ちょっと笑ってましたけどね(笑)。10分前で(笑)」――デビュー曲が、「箱根八里の半次郎」という。これはもう股旅ものを書ける先生が松井由利夫先生しか当時いなかったにもかかわらず、その先生の詩で水森先生のメロディで。これは、もらった時はどうでした? 「僕らの世代はやっぱり股旅の世代ではないので」――そうだよね、股旅なんて字、読めないよね。「猫のえさとぐらいにしか思っていなかったんです。それは知識的には知っていたんですがよくはわからなかったので映画を見たりして、勧善懲悪の世界で弱い人を助けて悪い人を懲らしめるという世界観が、ああいいなあと。正直、本当は僕はもうちょっとしゃれた歌謡曲にあこがれていたんです。ムード歌謡っぽい”♪ガラスの心が何とか~”(笑)みたいな感じの? そういう曲がいいなあと思っていたんですけど、”そういう曲がいいです”と、先生に以前言ったら”生意気なことをい言うな”って怒られたことがあって。でもやっぱり自分の曲をいただいた時は感動しましたね(しみじみとそうおしゃっていました)。たったひとつの自分の曲なんだーという喜びと...」――この時はもうすでに長良音楽事務所に入っていたの?(きよしさんの”はい”と言う返事を受けて) 長良さんとの出逢いは?「さまざまな事務所の社長さんに水森先生が テープを送ってくださって。 5、6社あったんですけど、なかなか決まらなくて。次こそは決まると思って事務所に送ってくださるんですよね。”今度は大丈夫だろう”って。”清志、次はデビューできるぞ”って言ってくださるんですけど、なかなか若手男性演歌歌手というのがデビューしても難しかったみたいで」――時代が”若手演歌歌手っていうのがまったくなかったからね。氷川君がデビューした今から12、3年前は。それでそういう中で?「これで、この事務所でだめだったら、先生に”もうおまえ、演歌やめろ”って言われたんですよ。僕もそう思っていたんですよ。これ以上、先生に面倒見てもらうのも申し訳ないと思って。3年というのを自分の中で目途にしていたんです。”石の上にも三年”という言葉も知っていたので(静かに笑って)。最後の賭けで、今の事務所の長良会長(当時は社長)のところまで行って、水森先生のギターで「雪の渡り鳥」とか「一本刀土俵入り」とかを歌って。歌った後、会長が即その場で、”よし、うちでやろう”って言ってくださって。 ”えっ?”ってなって。いや、本当かな? 本当にデビューできるのかなあ? と思って...。帰りに水森先生の車に乗せていただいたんですけど、先生が泣いているんですよ。”山田清志、よかったなあー。デビューできるなあ”って言われて。”いや、嬉しいです。 でも本当ですかねー”という感じになっていたんですけど」――その時、これで社会人になったかなみたいな?「いや、まだなかったです。正直、まだ断られるかもしれないと思っていて確信ではなかったんですよ。紙に書いたりしているわけではないですし。ただ言葉だけのものじゃないですか。それで事務所に通うようになって、あっ、何かこう少しずつ近づいてきてるかなみたいな。事務所に通って電話番をしたり事務のお手伝いをしたり。当時は廣済堂プロダクションっていって赤坂に事務所があって」――山川豊さんに会ったり?「はい。山川さんに会って緊張して。すごいスターだあと思って。 見るものすべてが、芸能界ってこういうところなんだーと思って。圧倒されていましたね」――だんだんそうやって歌手としての第一歩を歩み出して、これからはデビューじゃないですか。今度は芸名はですよね。芸名は会長がお付けになったんですか?「会長が北野武監督と交流されているみたいで、北野監督に付けていただきました」――ビートたけしさんて、あんまり氷川なんて付けないでしょう? ガダルカナル鷹とかつまみ枝豆とかね。「いろんな名前があったんですよ(笑)。”天晴きよし”とか。――(笑)。「”天晴きよし”が一番インパクトありましたよね(笑)」――はあー。(笑・笑・笑!!!)。”天晴きよし”だったら、俺、今日ないと思うな(笑)。「そうですか(大真面目な様子で)。でも何かその名前を見た時はキャラをちゃんと作らないといけないかなあと思っていました。”天晴れですぅー!”っみたいなノリじゃないですか、響き的に。でも どんな名前を付けていただいても、北野監督からいただいた名前であれば」――それはそうだよねー。どうして氷川になったんですか?「事務所が赤坂の氷川神社の近くにあったんで」――氷川神社の氷川から取ったんだ。その後、芸名が付いて、「箱根八里の半次郎」が大ヒットするじゃないですか。「(思わず小声で)おかげさまで」―― ビートたけしさん、(言い換えて)北野監督とはお話になった?「はい。デビューしてすぐの時にテレビの1時間番組の中でほとんど1時間近くを使って僕の特集とういうか。北野監督と志村けんさんがキャンペーンをしてくださる企画で、僕のCDをレコード屋さんの一番に置くという、強引に。ある歌い手さんのCDの上に僕のCDをバーッと乗っけて(笑)。それでキャンペーンをして。それで新宿のアルタの東口のステージ(ステーションスクェア)で歌って、一般の人がいっぱい集まってくださって。”氷川きよしっていうのがデビューしました! みんな応援してくれー!”みたいな感じで、北野監督と志村さんが”氷川きよし”のチラシを大量に配ってくださったんです。みんな北野監督や志村さんからいただくと嬉しいからチラシを受け取るじゃないですか。それですごく盛り上がったという感じがしましたよね。 僕はもう、それまでずっとテレビで見ていた方だったので、 そんな方がね、どこの誰だかわからない青年に力を貸してくださったということが本当に嬉しかったですし。ご恩返しできるようにこれから歌手として結果を出して行こうという思いになりましたね」――それでデビューして13年目に入ったけれども。また今度新しい氷川きよしが生まれそうじゃないですか。その出逢いが平尾(昌晃)先生でしょ?「はい」――氷川さん。思えばですよ、アマチュア時代に平尾先生の門を叩いたわけじゃないですか。「そうなんですよ。子供の頃から歌は好きだったんで。ポップス歌手になりたかったので、オーディションに出たりしましたね。中学時代は丸刈りだったんですが、丸刈りでチャゲ&飛鳥さんの「SAY YES」やX(エックス:のちにX JAPAN)とか、ポップスを幅広く歌っていました。それで平尾先生のミュージックスクールも受けたんです。平尾先生が1メートル先に座っていらっしゃるんですよ。緊張しながら初めて有名な方の前で歌うというドキドキ感と、絶対に歌手になりたい。絶対チャンスを掴みたい!みたいな気持ちで歌ったことを思い出がありますよね」――その時はだめだったわけだよね。「はい。本当に縁を感じました。(註:オーディションには合格したのですが、諸事情で入学がかなわなかったのでしたね) レコーディングの時に平尾先生に言ったんですよ。”20年前です。中学校2年の時に先生のオーディションを受けて”って。そうしたら”ああ、覚えているよー”って言ってくださったんですけど。先生も気ィつかって言ってくださったのかなあーと思って(笑)。 (先生の優しい)心を感じたんですけど」――平尾先生がゲストにお越しくださった時にその話をしてたんだよ。”氷川君も実はうちの音楽教室を受けたことあるんだよ”って。「へえー。嬉しかったです。やっと夢が叶ったというか。水森先生はずっと僕の歌の永遠の師匠ですけど。 平尾先生は縁があって、またお会いでき方という感じで」――それもまさに20年でね。20年ぶりにその出逢いが成長した氷川きよしとまさに円熟した平尾昌晃との出逢いですもんね。これも何かの縁だよね。人間てやっぱり縁は大切だね。「いや本当にそう思います。生きている間に出逢える人ってそんなに多くないじゃないですか。ひとりひとり出逢った人を大切にできるような生き方にしたいですよね」――そうですね。あなたのステージは常にそういうことを思ってステージを組んでいらっしゃるからより以上にファンは広がるし、リピーターは多いし、ねえ。「ありがたいです」――で、歌手の氷川きよしといたしましてはもう一皮むけましてこういういい曲ができましたのでぜひひとつ。この歌の聴きどころはやっぱり、いわゆる今までとは違う歌い方ということでしょうね。「そうですね。優しく気持ちで歌わせていただいたつもりです」――ですね。そんなようなところを皆さまにお感じ取りいただければと思います。 デビュー13年めを新たな船出といたします。そんな表現をする氷川きよしさんでございます。2月の8日にリリースされました新曲「櫻」をお聴きいただきましょう。※「櫻」がフルコース流れます。そして、ふたたび徳光さんのトークから始まります。――国民的歌手・氷川きよしさんを形作った運命的出逢いは水森英夫さんに、ビートたけしさん、そして平尾昌晃さん。そしてもうひとり付け加えさせていただくなら長良会長ですね。長良会長は東京の父親だね。デビュー13年目の新たな出発。ますますの躍進をわれわれ願っております。 「がんばります!」徳光さんが”貴重なお話をありがとうございました”とおっしゃると、きよしさんは「お世話になりました。ありがとうございます」と静かにおっしゃって退出されたのでした。
長良会長によりますと、ときよしさんと会長が初めて会ったのは1999年2月25日のことだったそうです。
それはのちのインタビューで長良会長ご自身が、
『忘れもしません。1999年2月25日。私が初めてきよしと会った時、着ていた洋服は青いセーターだった。後から聞いた話ですが、あのセーターは私と会うために、なけなしのカネをはたいて買ったそうです。』
とお話しされていました。
そのインタビューは「サンデー毎日 2005年3月27日号」の”ファンも知らなかった 氷川きよしが大泣きした夜”というタイトルの記事で、村田久美記者によるものです。
充実した内容で掲載当時とても印象に残っています。
とりわけ印象に残っている談話のいつくかを書きとめてみました。
【スターを育てることについて】
スターを見つけだして育てる。私も芸能界で何十年と歌手のマネジメントを手がけてきましたが、素質を見抜くのはとても難しい。
でもスター性を持っている人と出会うと、ある主のオーラというか”匂い”を感じる。
独自の感覚なんですが、きよしと初めて会った時、"目”に強烈なエネルギーを感じた。うそがない、正直な男だと。それが歌に表れていて、汚れがまったくない。
そのへんが"匂い”だったのかもしれません。
【「箱根八里の半次郎」のデビューキャンペーン】
「箱根八里の半次郎」でデビューする前、CDは売らずに、店頭で1曲歌うだけ。それを徹底させたのです。
彼にしてみれば長い下積みを経て、ようやく決まった晴れの舞台。
なのに、股旅姿で歌うのは、正直しんどかったと思う。でも私はあえてこう言った。
「きよし、笑われれば笑われるほど、世間の皆さまに認知されて、売れるんだよ。だから私のやることを信じてついておいで」
歌手を売り出すのは大きな賭けで、失敗すればリスクも大きい。
私が水原弘(故人)のマネージャーをしていた頃、1967年に「君こそわが命」という歌で、カムバックを果たした時の手法と同じです。
当時、水原を支えてくれた世代なら、氷川を受け入れてくれるに違いない、という勝算はありました。
99年暮れにJR巣鴨駅前にある小劇場に、飛び入りで出演をさせてもらった。客層はおじいちゃん、おばあちゃんばかりが100人ほどいたと思う。「箱根八里の半次郎」を1曲歌わせてもらったんです。そうしたら、拍手喝采で大喜びしてくれた。
その光景を見て、
「これはいけるぞ」と手ごたえを感じました。年配の方には支持されると確信しました。
あとは、若い世代にどういう形で浸透させられるか。
たしか浅草のレコード店での出来事でしたが、若い茶髪の20代前半くらいの女の子が、きよしを指して「何あれ、バカみたい」と笑い転げた。
その声を聞いて「勝った」と思った。
ふつうにこぶしを利かせて歌っていたのでは、誰も振り向いてくれませんからね。
「何あれ」と、言ったのは、興味を抱いてくれた証拠でもあるんです。
【プロ歌手とは】
うわべで歌う歌手は大勢いる。きよしにはそうなってほしくはない。
私が思うプロ歌手とは、
(1)歌うこと、聞くことの両方で音に対して勘が良い。
(2)詩を理解して、自分らしさを表現できる力がある。
(3)自分の置かれている状況を判断して、周囲への気配りができる。
この3点です。
よく歌舞伎の世界では、役者が素晴らしい演技をすることを「腹に芝居を落としている」と、言います。
歌の世界に置き換えるなら「腹に歌心を落としている」と、なるでしょう。
きよしにお願いしたいのは、いつまでもプロ歌手としての姿勢を貫いてもらいたい、ただそれだけです。
2004年、猛暑と忙しさから体調を崩し、コンサートを延期されたことがありましたね。
その時、長良会長は、きよしさんに雨宿りしているキリンの写真のコピーを渡されたそうです。
このエピソードは、きよしさんご自身も語っておられたことがあるのでご存知の方も多いかと思いますが、そのことについて長良会長はこのようにお話しされています。
『きよしは責任感の強い男だから背負い込んでしまう。
だから、「焦ってはいけないよ」という意味をこめて、1枚の写真のコピーを渡しました。
(中略)
謎かけでもあるがどういう反応が返ってくるかでその成長の度合いもわかる。
その写真は”1頭のキリンが、草原の中に1本だけ生えている大きな木の下で、雨宿りをしている”そんな素敵な光景なんです。
「きよし、これはキリンが雨宿りしている写真だ。デビューしてから走り続けているんだから、たまには雨宿りする時だってあるよ」
と励ました。
(中略)
非凡な才能を持つ少年のことを”麒麟児”といいます。
字は違いますが”騏麟も老いぬれば駑馬に劣る”ということわざ(註:「戦国策」斉策から。すぐれた人も年老いると働きが劣り、凡人に及ばなくなることのたとえ)がある。
自分を麒麟児と思って高慢になるか、今の人気はいずれは老いる時もあると、自分を戒め精進するか――。
それは本人の受け止め方次第です。
でも、私はきよしを信じています。』
そして恋愛のことについてもお話しされていました。
『人間だから、人を好きになるのは当たり前ですし、それを抑えようなどということは私はしませんよ。
人を好きにならなかったら、うわべだけの歌になってしまうし、芝居もできない。
願わくば、本当にいい人を好きになってもらいたいね。
どちらかと言えば、相手に惚れられるよりも、きよしが惚れて苦しむほうがいい歌が歌える(笑)。
本人とそんな話をしたことはありますよ。親子みたいに何でも話し合う仲ですからね』
そういえば、きよしさんが「一剣」を歌い始めて少したったころ、長良会長が刀のレプリカと小さな合掌造りの古民家のオルゴールをプレゼントされたことがあったそうで、その贈り物については、きよしさんが、
『「一剣」を歌っていても、その詩の世界とはまたく違う都会生活を送っている。
だから、この刀を見て、日本の武道の美しさと精神を忘れないように。
そして古民家を見て、日本のふるさとの美しさとそれを思う気持ちを忘れないように』
長良会長のそんな思いが込められた贈り物だったと、語っておられたことがありました。
愛する心は永遠...。
時を重ねるほどに、その言葉に大いなる真理を感じます。
そして、奈良文化会館でのコンサートに参加させていただけることになりました。
前回は取材と重なり、お友だちにチケットをお譲りしたのですが、今回ももしかしたら?という状況になっていたのです。
でもその取材が先週末に8日の夕方からと決まったので、奈良には大手を振って出かけられることになりました。
昨日、奈良から5月29日発売のニューアルバムの曲を唄ってくださると、゛きよメール゛でしって嬉しさ倍増です(喜)。